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17:計画と現実の乖離

 夫婦になったからには閨を共にする。たった、それだけの話だった。

 それなのに、なぜか一直線では辿りつけなかった。

 酒場で下働きをさせられ、化粧をした男に迫られて貞操の危機まで味わい、翌日には滞っていた書類仕事を山盛りで押しつけられた。


 そうしている内に、当初の目的がどれだけ単純だったのか、逆に思い知らされるという始末だった。


 愛がどうとか、欲望がどうとか、そんな青臭い話ではない。そして、別に抱きたくてうずうずしていた訳でもない。


 これはあくまで技巧の問題だった。


今まで育んできたテクニックを披露し、リネアに「あなたには敵わない」と言わせる。できれば、ちょっとだけ潤んだ目と震える声で。ついでに、「もう離れられないわ、責任とって」などと、控えめな絶望も滲ませてもらえると最高だ。

 彼女の理性が崩れていく姿を、真上からゆっくり眺めてやりたい。

 惚れさせると言うのが、情緒ではなく、もはや攻略になっているような気がしないでもないが、それは置いておくことにした。


 今こそ流れを引き寄せ、主導権を握り返し、ついに夫としての威厳を形にしてみせるのだと言う、やや古風な決意を胸にして、ギデオンは寝室の扉を開けた。


 寝室は花屋で買い集めたバラとユリが、花瓶に分けられ、数を競うように並んでいる。

 ベッドの脇には蝋燭が十数本、一定の間隔で置かれ、サテンのシーツには赤と白の花びらがこれでもかと撒かれていた。

 中央のテーブルには冷やしたワイン。その脇には、誰が食べるつもりなのか定かでないまま、チーズとイチジクの盛り合わせが、小皿に並べられていた。

 カーテンは羽のように軽やかなシフォン地に掛け替えられ、床には毛足の長いラグがふんわりと敷かれている。


(ちょっと、やり過ぎたかもしれない)


 夢中で準備していたときは気づかなかったが、時間を置いて見直してみると、ほんの一歩だけ滑っているような気がしない訳でもない。

 ギデオンは咳払いし、気持ちを切り替えた。

 惚れさせるには、過剰な演出も必要だ。問題ない。……はずだ。


 そんな内心を押し隠していると、寝室の扉が開きリネアが姿を見せた。


「…………うわ」


 視線をゆっくり巡らせた後、リネアの口から、らしくもない素の声がぽつりと漏れた。


「今、うわって聞こえたけど」

「いえ……、その……何でもないの。ただ……なんというか……」


 いつもなら、少しも迷わず言葉を返してくるはずの彼女が、珍しく言い淀んでいた。どこか落ち着きなく視線を泳がせながら、言葉を探している。

 ギデオンが無言で続きを促すと、リネアはえへ、と可愛らしく笑った。


「……ちょっとだけ、気持ち悪いかなって」


 言葉そのものもきついが、気を遣われている感じが更にこたえた。ギデオンは口元を歪め、グラスに手を伸ばす。


「まあ、そう言うなよ。高貴なセンスは、凡俗には理解されづらいものだからね」


 精一杯の平静だったが、グラスの脚を持つ手に力が入りすぎて、かすかにきしりと鳴った。リネアはそれには触れず、代わりに視線をテーブルへ滑らせた。


「そ、そうね。……グラスのセンスあると思うわ」


 彼女の口から出たその一言は、明らかに空気を読んだものだった。こういう時、沈黙よりは何か言っておいたほうが無難という判断の結果だ。


「ふん、当然だろう。視覚からの第一印象は重要だからね」

「ワインの置き方も、整ってていいと思う。左右のバランスとか」

「配置には計算があるからね」

「あと……花の色合わせ。白と赤だけでまとめてるの、意外と上手!」

「まぁ、センスというのは、才能と教養と経験の融合だ。言葉で教えられるものじゃないんだよ」


 どれだけ建前が混ざっていようと、三つも褒められれば、ギデオンの自尊心はあっさり復活する。言ってから、グラスをくい、と少しだけ傾ける。中身は入っていなかったが、気分の演出にはちょうど良かった。

 リネアは、苦笑ともため息ともつかない呼吸をひとつ挟んだが、何も返さなかった。

 ギデオンはグラスをテーブルに戻し、滑らかに身を乗り出す。あとはごく自然な流れで、ベッドに倒れ込ませるだけだ。


「さて。ここまで整えて抱かない方が、むしろ失礼ってものだろう」


 ギデオンは言いながら、リネアの腰へ手を添えた。

 その仕草が実に絵になっていると、彼は深く疑いもせず確信する。優雅な角度、無駄のない距離、そして惚れ直される未来まで計算し尽くした、まさに完璧な導線だった。

 そのまま、リネアをベッドへ押し倒そうとした、その時。


「ところで、どっちが抱くの?」


 リネアが、ごく真顔で首を傾げた。


「……え?」


 ギデオンの動きが止まった。押し倒すはずだった手は宙に取り残され、肝心のリネアだけが涼しい顔のまま動かない。


「……え?」


 理解が追いつかないまま、もう一度まったく同じ声を漏らすギデオンに、リネアはにっこりと笑った。


「私があなたを抱くのか、あなたが私を抱くのかってことよ」


 告げられた刹那、ギデオンの中で何かが静かにひっくり返った。

 抱く側か抱かれる側か。そんな分類がこの世に存在するなど、つい五秒前まで思ってもみなかった。

 妻に抱かれる、という未知の語彙が、頭の中で反芻される。

 押し倒すつもりだった手は、気づけばリネアの腰からそっと離れていた。


「え、何。その選択肢……」


 ようやく出た声は、気取る余裕などどこにもなく、どうにも弱々しいものだった。リネアはそんな夫の混乱を見透かしているかのように、微笑みをたやさない。


「私ね。どちらかと言うと、乱されるより、相手がどう崩れていくのか眺める方が好きなの。大丈夫、乱れたギデオンもきっと可愛いと思うわ」

 

 銀の鈴を転がすような声音で、まるで祝福でも告げるような笑顔のまま、ひどく物騒なことを言う。


(ちょっと何言ってるんだろうこの人)


 あまりに無防備で、あまりに正直なその言葉は、ギデオンの内心にしては珍しく飾り気がない。

 追い詰められると人の思考は案外シンプルになるのだな、と、そんな考えが、戸惑いの渦の中でふっと浮かんでは消えていった。


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