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16:深夜の帰り道

 夜半を過ぎ、外気が静まり返るころ、酒場の灯りが一つずつ落とされていった。椅子はテーブルに上げられ、床に残った細かな屑を箒がゆっくりと片づけていく。最後のひと掃きまで終えると、マスターが軽く顎を上げた。


「みんな。今日は助かったよ。はい、これ日当な」


 紙包みは双子とリネアの手に落ち、最後にギデオンへと差し出される。すると彼はぽつり、と言った。


「…………ありがとう」


 その一言に、リネア以外の全員がぴたりと固まった。

 ギデオンが素直に礼を言うなど、不吉な前触れかと疑われても仕方ないレベルだった。しかも声が妙に平坦で、いつもの尊大な響きがどこにもない。

 その理由に心当たりがある双子は、つっと視線をそらした。あの惨事を思い出したらしく、どう声をかければいいのか分からない。結局、気まずさをごまかすように、そそくさと帰り支度を始めた。


「じゃ、俺たち帰るから」

「……みんな、お疲れ」


 彼らにしては珍しい逃げ足の速さだった。残ったのはマスター、リネア、そしてギデオンだ。


「ギデオン、大丈夫か? まあ、ああいうのは……。あんたみたいな顔立ちの男にはよくある事だ。その……気にするほどのことじゃないさ」


 慰めたつもりの言葉だったが、内容としては驚くほど役に立たない。何が起きたか把握していながら、これ以上踏み込む勇気はないという、大人の中途半端な距離感が透けて見えた。

 ギデオンは少し間を置き、どこか遠いところから声を拾ってきたような調子で答えた。


「……だれも助けに来てくれなかった」


 か細く、訴えるような一言に、マスターの喉が「 ん゛っ!」 と鳴る。

 笑ってはいけないと必死にこらえた拍子に漏れた、短い濁った音だった。表情も微妙に引きつり、口元だけが不自然に結ばれている。


「ギデオン、お腹すいたわ。何か食べていきましょう」


 外套を羽織り、リネアがギデオンの腕に手をかける。


「……今日はもう……何を口に入れればいいのかも分からない」

「大丈夫。食べれば分かるから」


 リネアの返しは雑だったが、声だけは妙に確信に満ちている。

 ギデオンは魂が半分ほど抜けた顔のまま、ゆっくりとまばたきをした。抵抗する気力が完全に底をつき、リネアに軽く引かれるだけで素直に足が前へ出た。

 その背を見送りつつ、マスターの喉がひとつ上下した。飲み込んだのは言葉ではなく、笑いの方だった。




 夜道をふらつく足取りで進みながら、ギデオンの脳裏には、望んでもいないのに先ほどの惨事が浮かび上がってきた。


 例の三人に捕まった後、脱がされかけたのだ。


 肩口はずり落ち、上着の前は片側だけ妙に開き、ボタンは外され、誰がどう見ても「このままではいけない」という段階まで迫られて、ギデオンはついに覚悟した。

 この場から生きて帰るには、格好など気にしていられない、と。

 そう判断し、椅子からずるりと落ち、そのまま床をほぼ四つん這いで逃げ出した。背後から「ちょっと待ちなさ~い!」という野太い声が飛んできたが、振り返る余裕などあるわけもなかった。

 そのまま厨房の裏口まで転がり込み、しばらくの間、頭を抱えてガタガタ震えていたのだ。


 ……という経緯を思い出しながら、ギデオンはそっと腹を押さえた。精神的な痛みで、お腹まで痛くなるというのは、初めての経験である。リネアが彼の顔を覗き込む。


「ギデオン? 魂どこに置いてきたの?」

「……そんなもの。服の半分と一緒に、持っていかれた」


 あまりにも平坦で、虚無そのもののような声だった。リネアは彼を見て、わずかな沈黙を落とした。そしてゆっくりと頬へ手を当てると、肩が微かに震えた。

 笑ってはいけない、と分かっているときほど人は弱い。さきほどのマスターとまったく同じ現象が、彼女の中でも静かに発生していた。


「なんで笑うんだよ……」

「っ……ごめん、そんなつもりじゃ……っ……ふふ……!」

「君は、妻として夫の危機にもっと寄り添うべきだったと思う」

「寄り添ってるわよ。ほら、ちゃんと横にいるでしょう……っ、ふ……!」


 言いながらリネアの肩がまた震える。

 ギデオンはというと、無表情のまま夜道を歩きつつ、ぽつりと零した。


「……僕は、今日ほど自分の美しさが憎かった日はない」

「っ……!」


 とうとうリネアはこらえ切れなかった。押さえた手の隙間から笑いが漏れ、肩が細かく上下した。

 ギデオンはゆっくりと顔を向けた。その視線には怒りも悲しみもない。ただ、静かに無慈悲な世界への諦めだけが漂っている。

 しばらくして、ようやく笑いの発作から解放されたリネアがにっこりと笑う。

 

「でもギデオン、今日は本当に働いたわね。えらかったわよ」

「君に言われて仕方なく働いただけだ。……皿を洗い……人の機嫌を取り……そして……あの…襲撃だ」


 歩きながら、紙包みを手の中で転がしていた。そこに入っている金額は、どう考えても、今日の苦難に見合わない。


「あんな思いをして、たったこれっぽっちだ」

「それが普通なのよ」

「ふん……。皆はこんな額のために、毎日あくせく働いているのか。ご苦労なことだよ、本当に」

「どんなに大変か、少しは分かった?」


 リネアが横から覗き込む。


「分かったさ。庶民の苦労がね。でも、勘違いしないでほしい。庶民は庶民だから働くんだ。君が僕を働かせて改心させようとしたのなら、それは無駄な努力だよ、リネア。僕は僕だ。今日の経験で変わるほど、安く出来ていない」


 言葉を連ねるうちに、ギデオンの声にはいつもの威厳めいた張りが戻ってくる。尊大さが復活したと言えば早いが、少なくとも先ほどまでの抜け殻のような男ではない。そんな彼にリネアは笑みを崩さない。


「当然よ。改心なんて最初から期待してないわ」

「……即答だね」

「だって……」


 リネアはそこで一度、唇を閉ざした。息を継ぐ気配すら薄れる。先ほどまでの穏やかさが、どこか温度の違う静けさに沈んでいく。

 ふと上げられた視線が、真っすぐギデオンを射抜いた。柔らかいはずの瞳が、揺れも迷いもなく、まるで筋の細い刃物のように澄んでいる。そこに浮かぶのは微笑みなのに、背筋が冷えた。


「その程度で変わられたら、つまらないでしょう?」


 ギデオンは、口を開きかけて止まった。リネアの雰囲気が、どこかで切り替わった気がしたのだ。


(何だ…?)


 説明のつかない違和感だけが胸に残る。ただ、その違和感が彼女の奥に潜む何かへ触れたのだということだけは、言葉にならないまま伝わってきた。

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