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13/21

13:駆け引き

「リネア!」


 呼び声は無駄に堂々としていた。自信と虚勢が半々でできた声量である。

 だが、返ってきたのは慌てふためく気配ではなく、もぐ、と乾いた咀嚼音だった。

 振り返ったリネアはベルと肩を並べ、クッキーの皿を前にしていた。頬にまだ欠片を入れたまま、にこやかに言う。


「おかえり、ギデオン。家出はもう終わり?」

「……帰ってこなくても良かったのに」


 その横で、ベルが不満そうに眉を寄せる。クッキーをもぐもぐしながら呟くあたり、本気なのか冗談なのか判別が難しい。


「君ら、何してるんだ?」


 ふと、素の声が漏れた。帰宅したというのに、場の空気はまるで揺れもしない。その無風ぶりに、自分だけ取り残されているような感覚が声に滲んだ。


「お喋りしてたのよ。ベルが面白い話いっぱいしてくれるの」


 リネアはにっこりと笑った。正妻、愛人、夫という三角形が、その笑顔ひとつで平和的に解決されている。


「それで、家出はどうなったの?」


 リネアが首を傾げながら、問いかける。


「家出じゃない。僕くらいの男なら、夜の外出は生活の一部だ」

「はいはい、好きに言ってて」


 軽くいなされた。爽やかすぎて逆に腹が立つタイプのいなし方である。


「ともかく! リネアと話があるんだ。ベルは席を外してくれ」


 声にだけは威厳を乗せる。ベルは軽く唇を尖らせたが、すぐに小さく息を吐いた。


「……分かったわ。リネア様を困らせないでね」


 そう言って、ベルはクッキーの皿をリネア側へ押し戻し、立ち上がる。未練がましく一度だけ振り返ってから、扉の向こうへ消えていった。

 その背には、恋する者特有の、帰りたくないけど帰らなきゃいけない雰囲気が漂っていた。

 ギデオンは、なぜかほんの少しだけ勝った気分になり、同時に胸の奥がチクリとした。勝利と敗北がひとまとめになったような、非常に扱いにくい感覚だ。


 静かになった部屋の中央に、ギデオンとリネアだけが残る。


「大事な話ってなに?」


 尋ねるリネアに、ギデオンは胸を張り、ニヤッと笑ってみせた。


「リネア。君に妻としての務めを果たしてもらおう。僕は君を抱く」


 言い放たれた言葉は、じつに雄々しかった。

 しかし、言い終わるより早く、マントの内側から、ひらりと一枚の紙が落ちた。

 リネアは無駄のない動作で紙を拾い上げた。すっと視線を落とし、金額を確認し、そして眉ひとつ動かさずに言った。


「これは?」


 ただの質問だった。だが、その優美さのせいで、怒っている気配がないという事実が逆に恐ろしい。途端に萎えそうになる心を叱咤して、ギデオンは唇の端を吊り上げる。


「豪遊費だよ! 僕くらいの男なら、このくらい当然なんだ。健全と言っていい」

「ふぅん……。じゃあ、これは?」


 リネアは、マントからもう一枚の領収書を取りだした。

 くっきりと印字された「エロス・ルージュ」という店名。その下には「初めての娘から熟れた女まで。お望みのままに抱けます!」と書いてある。言い逃れ不能の下品さだった。 


「娼館も健全な豪遊の範囲?」

「い……一環さ!」

「で、大事な話ってこれ?」


 リネアは、領収書を揃えてテーブルに置きながら言った。

 

「違う。これは余興であって……その……本題じゃない!」

「じゃあ、本題は?」

「さっき言っただろ? 君を抱いてやろうって言ってるんだ」

「抱いてやろう、じゃないでしょ。ギデオン」


 その一言で、威勢よく組み上げていたギデオンの自信がぐらりと揺れる。


「だ、だき……いや、だから……その……」

「抱かせて、のほうが正しいんじゃない?」

「…………抱かせて、ほしい……?」


 言ったあとで気づいた。主導権を握るはずの自分の言葉が、いつの間にか、お願いしているような響きに変わっている。


「抱かれるのは、いいけど」


 リネアは何でもないことのように言った。耳が拾ったその一言に、ギデオンは条件反射のように前のめりになる。性欲云々というより、今すぐ屈服させたいと言う気持ちのほうが濃かった。


「よし、じゃあ今すぐ……」


 伸ばした手より速く、リネアの指先が軽く制する。


「いいけど、まずは今日の仕事を片付けてからね」


 また「仕事」だ。ギデオンの眉間にしわが寄り、口元はへの字に曲がり、目が死んでいく。


「今日の分、丸々空けて遊んでいたでしょう? それと、この豪遊代。あなた、金銭感覚が少しおかしいわ。この数字で、まだ健全だって言えるなら、感覚を直した方がいいと思うの。だから、別の所で働いてきて?」


 すとんと落とされたその一言に、ギデオンは耳を疑った。


「……はた、らく?」

「例えば、昼の間だけ誰かの店を手伝うとか。荷物を運んだり、お皿を下げたり。半日働いて、その日のうちにお金をもらうような、そういう稼ぎ方もあるでしょう?」

「なんでそんなこと、僕がしなきゃいけないんだよ!? 僕は領主なんだ。それが皿を下げる側に回るなんて、世の秩序がひっくり返る」

「いいじゃない、たまにはひっくり返してみても。お金の重みを知るのは大事よ」

「君は僕の母親か!?」

「残念だけど、あなたのお母様ほど優しくないわよ?」


 リネアの言い回しは柔らかいのに、内容だけは容赦がない。舌打ちしたい衝動を、辛うじて堪える。


「そうね。この領収書の酒場で一日だけ雇ってもらったら?」

「はあ!?」


 ギデオンは思わず声を裏返らせた。上客として扱われた翌日に、皿洗いとして立つ。そんな屈辱的な構図は悪夢以外の何物でもない。


「言っておくけどね。この額は僕だけじゃない。君の兄たちが呑んだ分も入っているんだ」

「それなら、ちょうど良いわ。兄様たちにも、一緒に働いて返してもらいましょう」

「嫌だ! 絶対嫌だ!!」


 拒絶の仕方は、飾り気の欠片もないほど本気だった。

 大の男の駄々ほど見苦しいものもないが、もともと羞恥心の薄い彼には、それすら自覚する気配がない。


「じゃあ、働かないなら……私は抱かれないままね?」


 リネアは、たいしたことでもないように告げた。その静けさが妙に胸に刺さり、ギデオンは奥歯を噛み締めた。

 抱けないとなれば、自慢の「テクニック」を見せつける機会が消える。

 リネアをベッドの上で屈服させ、二度と生意気な口をきけないようにするという完璧なプランが、水の泡になってしまう。

 悩んだ末に、彼はどうしようもなく、ろくでもない案に飛びついた。


「……だったら、力づくで抱いてやろうか?」


 かなり悪趣味な脅しだったが、本人は本気だ。

 しかしリネアは動じない。それどころか、どこか愉しげに瞳を煌めかせて、唇に笑みをのせる。


「やってみる? できるものならね」

「…………」


 甘やかな声に、小さく浮かんだ微笑。その美しさが逆に冷たかった。男としての威厳だの、征服欲だのが一気にしぼんでいく。


「やっぱり、やめておく」


 言葉は、情けないほど素直に口から出た。

 怖いものは怖い。ここで妙な意地を張っても、いいことはひとつもない。ギデオンには、その程度の現実感覚はある。

 リネアは、ふっと目元を和らげた。先ほどまで氷だった瞳が、またいつもの柔らかい光を取り戻す。


「決まりね。明日はこの酒場で働かせてもらいましょう。大丈夫、私も一緒にいるから」

「……分かったよ。一日だけだ。明日だけ、だぞ」


 最大限しぶしぶといった顔で頷いた。

 大きな溜息を吐き出してから、ふと、酒場でのことが、唐突に頭をよぎった。

 双子が、酔った勢いで語っていた天使のような妹の話。誰よりも聞き分けがよく、愚痴ひとつこぼさず、家族のために笑ってくれた娘。


「君の兄たちがね」


 部屋を出ようとする直前、扉の前で足を止めて、ギデオンは少しだけ声の調子を変えた。


「リネアは天使だって、言っていたよ。いつも笑ってて、文句も言わなくて、とてもいい子だって。……けど」


 ギデオンは、短く息を吐き、笑いも皮肉も削ぎ落とした声で言った。


「君の兄たちは、リネアの本当の顔を知らないだけだ」


 一瞬、リネアの瞳が見開かれた。だが、それは本当に一瞬で、すぐにいつもの穏やかな表情に戻る。


「そう? 兄たちは、私の事、ずっと可愛がってくれてたわ」

「それが、問題なんだよ」


 ギデオンは、それ以上何も言わなかった。扉の取っ手に手をかけ、そのまま外へ出る。

 扉が閉まる音を背に、リネアはしばし動かなかった。やがて、小さく息を吐いた。


「……驚いた。勘はいいのね」


 誰に向けたでもない言葉を、ふわりと空気に浮かべる。

 その口元が、ゆっくりと吊り上がった。先ほどまでの柔らかな微笑みではない。冷たくも美しく形の整った、不敵な笑みだった。

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