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10:働かぬこと山の如し

 昼前の陽が、酒場の窓から射し込んでいた。

 こんな時間に酒場の扉を開けるのは、大抵ろくでもない客だが、その日入ってきたのは、その筆頭と呼んで差し支えない男だった。


 ギデオンである。


 左右の腕には、昨夜ベッドを共にした娼婦が一人ずつ絡みついている。

 三人並んで入ってきた様は、品位の影も形もない。


「ギデオン様、ここって高いんでしょう?」

「こんな昼間から入れるなんて、すごいわね」

「まあね。ちょっと高いけど、僕の行きつけなんだ」


 ギデオンは片方の娼婦の腰に手を回し、もう片方の肩を軽く引き寄せた。胸を張って答えながら、奥の席へ堂々と腰を下ろした。そうしながらも、ふとリネアの顔が脳裏に浮かび、胃のあたりがじわりと重くなった。


(二度と、あんなのに付き合うか)


 昨日、リネアの圧力に負け、生まれて初めてまともな仕事というものを味わわされた。

 確かに彼女の教え方は丁寧だった。隣で行を指でなぞり、一緒に読み、意味を噛み砕いて説明してくれる。

 だが問題は、仕事をさせられたという事実そのものだ。ギデオンは働くという概念を人生から、丁寧に除外して今日まで生きてきた。自分のような麗しい生き物に労働を課すこと自体が、受け入れがたい。


 結果として、昨夜、仕事を終えたリネアが部屋へ戻ったあと、ギデオンは姿を消し、そのまま馴染みの娼館へ足を運んだのだった。

 やさぐれた気分のまま扉をくぐり、豊かな胸をした女を何人か抱いた。

 肌と声と汗に紛れ込めば、仕事も書類も、リネアの横顔さえも、ほんのひとときは溶けて消える。


 娼婦たちは皆、優しかった。ギデオンを褒めて、触れて、笑って、惜しみない賛辞を口にした。


「ギデオン様って、ほんと、反則級よ。触れられたら、もう戻れなくなるんだから」

「お願いだから、また抱いて。あたし、ギデオン様以外じゃ満足できなくなっちゃったの」

「次も来て。丸一晩でも二晩でも、私を壊してくれるくらいでいいの」


 なお、娼婦たちは、全く同じ台詞を別の客にも言っているのだが、ギデオンは知る由もない。

 彼の脳内ではもう、「自分の腕前に酔いしれた娼婦たちが、嬉しさのあまり口を滑らせている」という都合のいい解釈が完成していた。



 そして今は酒場だった。

 娼館からそのままの勢いで、昨夜のお気に入り二人を両腕に引き連れてきたのだ。


「とりあえず、これ一本ね」

「いいよ、いいよ。たくさん飲みな。……その一番高いの、奥の棚の。ほら、金の封蝋ついてるやつ。あれを三本、持ってきて」


 マスターが一瞬だけ「本気か?」という顔をする。ギデオンは、それさえ尊敬の入り混じった驚きだと受け取った。


「このくらいの出費、僕にとっては軽いから。ね? 飲みたいだけ飲めばいい」


 娼婦たちは、くすくす笑いながら身を寄せてくる。


「まぁ……。ギデオン様って、ほんと太っ腹!」

「こんな昼間から、この値段のワインをだなんて贅沢すぎるわ。それにギデオン様くらいの御方になると、選ぶものも違うのね」

「だろう? 僕は何でも分かってる男だからさ」


 ワインの味については、実際の所、「高い=うまい」という単純な図式で処理しているが、指摘する者はいない。娼婦たちは、彼が望むとおりの言葉を、欲しいタイミングでくれる。そのたびに、元から高かった自己採点が、気づけば満点を追い越していった。


 娼婦の一人が、ギデオンの胸元の襟を直す。

 そしてもう一人が、耳元でくすくす笑いながら、昨夜の話題を持ち出した。


「ねえ、ギデオン様。昨日、あの若い子にも優しくしてあげてたでしょう? 見てたのよ。ほら、新入りの子」

「ああ、あれね。緊張してたらほぐしてやっただけさ」

「ふふ。そういうところが、モテるのよ」

「別に狙ってやっている訳じゃないさ」


 そう答えながらも、ギデオンは、これ以上ないほど満足そうに頷いた。

 昨夜、彼は実際、若い娼婦が強張っているのを見て、少しだけ丁寧に扱った。

 その理由は単純だ。緊張されていると楽しめないから、というだけだが、それが優しさとして受け取られるなら、それで良かった。


 娼婦たちの囁きを受けていると、これこそ自分がいるべき場所だと、当然のように思った。

 だが、その心地よさの隅に、リネアの横顔がひょいと顔を出す。邪魔な雑音を追い払うように、小さく首を振った。


 あれはいけない。


 あれは女のあるべき姿から根本的に外れている。


「それにしてもギデオン様って、"本当"に特別よね。昨日なんて、あなたが微笑んだだけで、娼館の女は"本当"にみんな息止めてたわ」

「ああ、あれね。また惚れられたかって思った。まったく、僕が笑うだけで落ちるんだから困るよな」

「"本当"に、皆あなたに夢中だわ。"本当"に……」

「僕がちょっと目を向ければ勝手に落ちるんだよ。昔からそう。才能って怖いよな」


 人は嘘を隠したい時ほど、"本当"を多用するものだ。だが、そんな分かりやすい癖をギデオンが察するはずもない。満足げに笑い、背もたれに体を預ける。頬が少し火照ってきたのは、酒のせいか、褒め言葉のせいか、その両方か。


(やっぱり、僕はこうしているのが一番似合ってるんだ)


 机の前で書類にしがみつく人生と、酒場で女に囲まれながら上機嫌に笑う人生。

 どちらが自分らしいかなど、考えるまでもない。


 そこへ、酒場の扉が開いた。

 昼前にしては少し勢いのある音だった。風が紛れ込んだのかと思うほど、外気がひやりと流れ込む。


「マスター、配達分の酒樽とパン、持ってきたよ」

「おう、ルシルにセシルか、助かる。そこに置いといてくれ」


 交わされた声が耳に届き、ギデオンは気まぐれにそちらを見る。

 蜂蜜色の髪が、差し込む光を受けてさらりと揺れた。澄んだ青い瞳と整った顔立ちが、ぴたりと二つ並んでいる。

 その色合いが、一瞬だけ誰かを思い起こさせ、ギデオンの胸がわずかに強張ったが、見ればまったく別人だ。

 眼差しは柔らかく、親しみを帯びた微笑みを浮かべる若い男が二人。顔も立ち姿も、まるで鏡合わせで双子だとすぐに分かる。

 彼らは酒樽を下ろしながら、マスターと言葉を交わしていた。


 ひと通りマスターとの話を終えた双子は、店内をぐるりと見渡し、ギデオンの姿を見つける。その途端、そろって目を見開いた。


「……あっ!」


 驚きの声も、表情も、ぴたりと同じだった。

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