都市が死ぬ夜─サイドストーリー
フェルシアがまだ信頼の王国ではなく、
過剰な制度が無機質な安心を約束していた前王期末期。
停滞したゼロ王の国家財政のもとで、地方都市は独自の交易政策でかろうじて呼吸していた。
ワルターはまだ二十代後半。
若き敏腕交易商にして、数字に酔う天才だった。
子供のころから自覚していた。
自分は理解速度も嗅覚も常人とかけ離れている。
心から笑った記憶など、いっそ思い出せないほどに少ない。
構造を解けば、世界の生活は数字で出来ている。
そう“知ってしまった”瞬間から、
ワルターは世界の真理を手にした気でいた。
数字こそが正しさ。
数字こそが未来を示す。
その確信が、未来の破滅の種だった。
◆地方都市レーンハーフの干上がり
ワルターは商業審議会に提案した。
「北街道の関税率を一時的に引き上げ、裕福な西方からの穀物流入を増やすべきだ」
計算は美しかった。
各都市の人口動態、消費指数、保存損耗率。
物流最適化。関税差益の活用。
王都の商人ギルドはその精密さに舌を巻いた。
数字上は、完璧だった。
──ただし“数字に載らない現実”を、彼は初めて見落とした。
レーンハーフには“冬季備蓄文化”がほぼ存在しない。
温暖な南交易に依存してきた歴史から倉庫インフラが弱く、
その年は若い夫婦層が急増し、出産率も跳ね上がっていた。
ゼロ王政権下で制度処理は滞り、
統計は二年前で止まっていた。
そして、関税引き上げが“商隊の迂回”を招いた。
合理的判断ではなく、
「いつも安全な道を通る」という人間の癖に従って。
ワルターの計算は、
“人間が合理的に動く”という前提に支えられていたのだ。
◆3日で飢餓、7日で街が壊れ始めた
冬が来た。
商隊は来ない。
倉庫に穀物はない。
南方の輸送は嵐で二週間遅延。
数字の上では「余裕は1週間」。
だが、現実の余裕は「3日」しかなかった。
四日目には、パンが消えた。
五日目には、乳母たちが互いの家を回り余り物を分け合った。
七日目には、家族が隣領へ歩いて避難し始めた。
レーンハーフは流血を免れたが、
都市は“死にかけた”。
その傷は、後の数年間、人口曲線として残り続けた。
ワルターは初めて知る。
「数字がひとつ狂えば、都市ひとつ死ぬ」
◆ワルターの“心の死”
審議会で責任を問われたとき、
若いワルターは喉まで言葉をのぼらせた。
「……数字上は、正し──」
言い切ろうとしたその瞬間、
避難民の母親が泣きながら叫んだ。
「数字は子どもを食べさせてくれません……!」
その一言で、ワルターの中で何かが折れた。
深夜、誰もいない審議会室。
計算表を握りしめたまま、彼は初めて吐いた。
その夜が、
“数字の天才”が死に、
“商人ワルター”が生まれた瞬間だった。
◆ワルターの哲学の誕生
翌春、ワルターは商業の教訓として書き残した。
「数字は道具であり、人の心は道そのものだ。
道具に道を委ねる者に商いを語る資格はない」
のちのワルター商会第一条となる金言である。
◆現在──王宮執務室
王宮で、当時のレーンハーフ報告書を読み返す。
静かに閉じ、天井を見る。
胸がざわつく。
痛む。
数字は戻らない。
だが、誠実さは未来を繋ぐ。
王とは数字と心の統合を行う者。
そして国家の財政と交易は国民の生死そのもの。
だからこそ、
“嘘をつかない王以外に任せてはならない”。
ファウストは数字で政治を動かすと言われている。
だが、本質は数字ではなく“誠実”だ。
あの若い王だけが、
数字と心の両方を持ちうる。
ワルターは静かに息を吐いた。
「正しさだけでは国家は運用できない。
……あいつは唯一、数字も心も持つ──誠実な信頼の王か。」
過去の失敗を飲み込み、
未来の礎へと再定義する。
だからこそ、
彼は心で決めた。
ファウストは“若き王”ではなく、
最も危険で、最も正しい資質を持つ王である。
その王の背を、
自分は必ず支えるのだと。




