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あやまちから始まる恋の罠  作者: アルケミスト


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 動揺を隠して仕事を始めると時間は瞬く間に過ぎ、あっという間に十時になる。


 各部署の部長以上の社員が、会議室に移動していった。


 そして一時間ほどで戻ってきて、『すぐに副社長が挨拶に来るぞ』と誰かの声がして……。


 広いオフィスの入口のドアが開いた時、あたしは思わず呼吸を止めた。


 あたしの席はだいぶ奥の方にあるから、ドアからは少し距離がある。


 でも、間違いない。


 開いたドアの傍に立つ、三つの人影。


 両端は、社長と専務。


 そしてそのふたりに挟まれて立つ、ひときわ背の高い、中心の人物は……。


「……一哉……」


 やっぱり、アイツだった。


 意志の強そうな凛々しい眉と切れ長の瞳。


 尊大なくらい堂々とした態度。


 こんなに距離があっても、絶対に見間違えようがない。


 やっぱり、あたしの知ってる、井上一哉だ。


 何度もあたしを抱き、愛し。


 狂おしいほどの恍惚であたしを酔わせたアイツが、今、そこに……。


「え……若い……!」


「てか、超イケメン!?」


 周囲では、口々にそんな囁きが飛び交い始める。


 社長の息子っていったらまだ若いのは当たり前なんだけれど、実際に一哉の姿を目にしてみんな改めて驚いてるんだろう。


 一哉のずば抜けたルックスのよさは、たしかに並じゃない。


 興味津々のみんなの視線を浴びながら、一哉は社長達と一緒にゆっくりと室内に入った。


 入口に近い部署から順に歩いていき、部署の紹介を受けたり、簡単な挨拶をしたりしている。


 席の並びからして、あたしの部はたぶん最後の方。


 あたしは適当に仕事するフリをしながら、徐々に近くなる一哉との距離を何度も確かめた。


 近づいてくるにつれ表情は細かなところまでハッキリして、話し声も明確になってくる。


 一哉の笑い声が耳に届くたび、胸が締めつけられるように苦しくなった。


 緊張が高まっているから、というのもある。


 でもそれとは別に……あの夜の、あたしの名前を呼ぶ一哉の声が、耳の奥によみがえるようで……。


「……!!」


 体の奥に火がともったように熱くなる感覚を、あたしは別のことを考えて懸命に追い払う。


 そんなことをしている間にも一哉達は順番に部署を移動し、気づけばもうすぐ傍まで来ていた。


「わわ、とうとう来るぅ!

 もぉー、あんなイケメンなんだったらメイク直し行っとけばよかったぁ」


 隣で中島さんが興奮した声を上げているけれど、あたしの視線は一哉に釘付けで、中島さんの方を見る余裕もない。


 一哉や社長の視線が、とうとう総務部のデスクが並ぶあたし達の島に移った。


 あたしは逆に俯いてその視線を避けながら、高鳴る鼓動に『静まれ、静まれ』と必死で念じる。


 足音と気配で、三人が完全にこっちへ来たことがわかった。


 真っ先に耳に飛び込んできたのは、専務の声。


「こちらが総務部です。

 部長の宮崎君以下、女子社員と派遣社貝が多い部署ですな。

 本社の総務だけでなく、各店舗の経理業務もここで担当してまして……」


 長ったらしい説明にも丁寧に相槌を打つ一哉の声が聞こえていた。


「経理を担う点ではあなたもお世話になる部署よ。

 覚えておいてね」


 説明の後の社長の言葉に、ハキハキとした声が答える。


「わかりました。

 宮崎部長。

 他、総務部のみなさん。

 副社長に就任しました井上一哉です。

 どうぞよろしく」


「よろしくお願いします!」


 周りは声を揃えて返事したけれど、あたしは声を出さずに頭だけ下げた。


 一哉の顔はまったく見ていない。


 緊張で今にも体がどうにかなりそうで、一刻も早くこの時間が終わるのをひたすら願っていた。


 だけど……。


「……あ。

 総務部ということは、保険の手続きなんかはここで?」


 その一哉の声に、あたしは心臓が破れそうなくらいドキリとする。


 質問には宮崎部長がハッとした顔で、


「ああ、そうですね。

 そういえば、入社用書類の方は?」


 と、控えめに一哉に尋ねた。


 一哉は申し訳なさそうに苦笑して、


「すみません。

 先日いただきましたけど、実はまだ持っていまして」


 と謝る。


 部長はすぐに『いえいえ』と笑顔になって、


「けっこうですよ。

 本日が入社日ということになりますから、本日中にご提出いただければ。

 後ほどこちらから受け取りに伺いましょう。

 ええと、ええと、担当はたしか……」


(ちょ……待ってよ、なんで今……!)


 心の中で叫んだってどうしようもなかった。


 まるで悪魔がイタズラしてるんじゃないかという気になってくる。


「橋本さんだったよね?

 午後になったらお願いできるかな?」


 何も知らない部長の声がうらめしい。


 逃げ出したいのを必死でこらえて、あたしはほんの少しだけ顔を上げ、


「……はい……わかりました」


 消え入りそうな返事に、部長は怪訝な顔になっていた。


 だけどそれよりも数百倍、話の流れでこっちに向いた新たな視線の方が痛い。


 一哉が、あたしを、見ている。


「……」


 一瞬の間が、あたしにはすごく長い沈黙のように思えた。


 視界の隅に映る一哉を窺いながらビクビクしているあたし。


 そんなあたしを見て、一哉は……。


「橋本さん……ですか?

 お手数かけますけど、よろしく」


 軽く笑ってサラリと言うと、すぐにあたしから目をそらした。


 そして今はもう、ごく普通の顔で宮崎部長と『これからよろしく』なんて会話をしている。


 何事もなかったかのように、平然とした態度で。


(……気づか……なかった……?)


 安堵で、ヘナヘナと座り込みたい気分。


 数年分の緊張が、今一気に訪れたみたいだ。


(けど……よかった。

 やっぱりバレなかった……)


 そうだよね。


 銀座の一流クラブで働くホステスが、こんな普通の会社の地味OLとつながるわけない。


 気づかなくって当たり前。


 心配しすぎて損した。


 アイツが副社長としてこの会社にいるだなんて、これからのことを思うととても穏やかではいられない。


 だけど今はバレなかったんだから、対策はこれからじっくり考えればいい。


 そう思って、あたしは本当にホッと胸を撫で下ろした。


 やがて一哉の全部署への挨拶が終わり、彼は社長と専務と一緒に来た道を戻っていく。


 三人が完全にオフィスから出ると、室内は一気に騒然となった。


 特に騒がしいのは女子連中で、一哉の相当なイケメンぶりにテンションが上がりまくっているみたいだ。


「ちょっとぉっ、マジであのイケメンが副社長っ!?」


「ありえなーいっ!

 けどヤバい、嬉しすぎる!!」


 そんな声がうちの部署でも飛び交い、宮崎部長があきれた顔で、


「おいこら、騒がしいぞ。

 さっさと仕事を始めてくれ」


 と注意していた。


 キャッとかわいく肩をすくめて席に着く周囲とは対照的に、あたしは疲れ切った顔でドサリと椅子に背を預けた。


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