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それからはウェヌスに出勤することもなく過ごし、気づけば金曜日。
あれ以来一哉から電話がかかってくることもなくて、正直あたしはホッとしていた。
(よかった……やっぱりアイツだって、その場限りのつもりだったんだ……)
そんなことを考えながら、出勤して会社に着くと、なんだか社内の雰囲気がいつもと違う。
なんていうか……騒然としてるというか、浮き足立ってるというか。
「……?」
怪訝に思いながら自分の席まで歩く途中で、他部署の社員が話している声が、微かに聞こえてきた。
「……マジかよ。
俺フツーに専務が後釜に収まるとしか思ってなかったぜ」
「イヤ、誰だってそう思うでしょ。
ていうか社長にそんな息子がいたってのも初耳だし」
(専務……?
後釜……?)
それで思い出す。
そういえば今日は、空席になっていた副社長の後任を発表し、就任挨拶をすると聞かされていた日だ。
もしかしたらその話かもしれない。
(なんだ……アホらし)
あたしの興味は一気に冷めた。
だってただの派遣社員のあたしには、別に副社長が誰だって関係ない。
そう思ったあたしは周りの騒ぎなんて素知らぬ顔で席に着き、パソコンを立ち上げた。
画面が明るくなるとすぐ、日課のメールチェックを始める。
だけど、届いていた二通目のメールを読み始めたところで、あたしは硬直した。
そこに書かれてた内容は……
【本日、新しい副社長が就任します。
十時から管理職以上で就任発表会を行い(三階大会議室にて)、その後副社長が各部署を挨拶に回ります。
皆さん、新しい副社長を温かく迎えましょう】
そこまではいい。
問題は、その後の就任発表会とやらのスケジュールに書かれている文字だ。
【就任の挨拶副社長……井上一哉】
フクシャチョウ……イノウエ、カズヤ……。
「ウ……ソ、でしょ……?」
無意識のうちに声が漏れていた。
ちょうど背後を通り過ぎようとしていたらしい清水さんがあたしの声を聞きつけ、面白そうな顔で覗き込んでくる。
「あ、メール見た?
さすがの橋本さんもやっぱりこれは驚きみたいねー」
ニヤニヤしている清水さん。
それに反応した隣の中島さんも話に入ってきた。
「あ、副社長の話?
驚きですよねー。
まさかのニューカマー!」
普段ならこんな社員同士の雑談には絶対に加わらない。
だけど今日は好都合とばかりに、あたしはそれに食いついた。
「誰なんですか、この人。
こんな人この会社にいませんでしたよね?」
すると清水さんはどこか得意げな顔で、
「それがね……その人、社長の息子なんですって。
なんでもずっとアメリカに留学してたんだけど、前の副社長の退陣が決まって、予定を早めて帰国してきたらしいわよ」
「アメリカに……留学……!」
『ただの同姓同名じゃ』というわずかな期待が、あっという間に粉々に砕かれる。
阿部さんから聞いたアイツの状況とも一致しているし、第一それほどどこにでもある名前じゃない。
(アイツが……一哉が、この会社の新しい副社長……!?)
頭が真っ白になった。
だけどしばらくすると、あたしはハッと気づく。
「でも、社長と苗字が違うけれど……」
ここの社長は、最近じゃそんなに珍しくもないのだけれど、女社長だ。
歳は40代後半から50代前半で、苗字はそう、たしか森田。
(一哉が森田社長の息子だっていうなら、なんで苗字が違うの?)
だけどその疑問には、中島さんがあっさりと答えをくれる。
「あれ、橋本さん知りませんでした?
社長、バツイチなんですよ。
たぶん苗字が違うのは、息子さんはお父さんの苗字のままなんじゃないかな?」
「お父さんの……」
たしかにそれはありえる。
戸籍のことなんかはよくわからないけれど、親が離婚しているなら苗字が違ったっておかしくない。
それじやあ……ホントに……。
「一哉が……社長の息子……」
「えっ?
なに?」
うっかり声に出してしまったけれど、幸い清水さんには聞こえなかったらしい。
あたしはあわてて首を横に振って、
「いえ、なんでもないです。
教えてくださってありがとうございます」
短くお礼を言って話を終わらせると、清水さんは自分の席に戻っていった。
あたしも前を向き、まだメールの文面が映るパソコン画面を眺める。
けれど、そこから、体が動かない。
心臓が壊れたエンジンみたいにバクバクいう。
マウスを持つ掌が汗で濡れてくるのもわかる。
(こんなことってある?
なんでなんで一哉が、新しい副社長なのよ!?)
あの日の一哉の姿や、合わせた肌の温もりが記憶によみがえってきた。
そして、熱く甘くあたしを酔わせた、アイツが『香』とあたしを呼ぶ、あの低い声も。
もう何日も経っているのにその全部があまりにもリアルで、自分でも驚いてしまう。
お互いの気まぐれで起こった、一夜限りの出来事だと思っていた。
連絡も来なくて、もう会うこともないと思っていたのに。
それがまさか、昼間のあたしに……橋本香の世界に、アイツが入り込んでくるなんて。
その時、パソコンが省電力モードに入って、画面が真っ暗になった。
ミラーのようになった画面に映る自分の顔を見て、あたしはハッとする。
(そうだまだ、気づくとは限らないわ)
画面に映ったあたしは、メイクも髪も夜とは別人。
それにメガネもかけているから、珠奈の面影はパッと見た感じじゃ、どこにもない。
(香って名前は名乗っちゃったけど、別にすごく珍しいわけじゃないし……)
少しずつ頭が回り出してきた。
あたしはさらに心を落ち着かせるよう努力しながら必死で考える。
(第一、副社長とただの派遣のあたしが顔を合わせることなんて、ほとんどないはず。
せいぜい今日の挨拶の時くらいよ)
前の副社長だって滅多に会うこともなかったし、直接話をしたことなんて一回もない。
そう、今日さえ気づかれずに終われば、きっとそれ以降は顔を合わせる機会だってほとんどないはずだ。
そして向こうに気づかれさえしなければ、あたしは素知らぬフリして普通に仕事していればいい。
「大丈夫きっと、バレないわ」
自分自身に言い聞かせるように、誰にも聞こえない小声で眩いた。
100%とは言えないけれど、今はその可能性を信じよう。




