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いつの間にか、目から熱いものが流れていた。
その時の一哉の気持ちを思うと、胸が破れてしまいそうだった。
口座番号は彰子さんしか知らなかった。
その口座に入金があったということは……それはすなわち、彰子さんが一哉との別れを受け入れたということに他ならない。
「送金を最後に、一哉から連絡が来ることはなかったわ。
そしてその半年後、私は久保と結婚した……」
「ひど……っ」
もはや止めようのない涙が、ポロポロと頬を伝ってテーブルに落ちる。
ぼやける視界で、あたしは彰子さんを睨みつけた。
さっきまで物腰のいい優しそうな人だと思っていたけれど、もうあたしの中の彰子さんの印象は180度変わっていた。
「あなたは……あなたは一哉を裏切ったんですね!?
どうして、どうしてそんなことを……っ」
お金で自分との数年を、約束を、想いを忘れてくれと言われた一哉は、どれだけ傷ついただろう。
「最低です……!
そんなのっ……」
なじるあたしの言葉を、彰子さんは黙って聞いていた。
今はまっすぐにあたしを見て、あたしの言葉も全部受け入れている。
そんな表情だった。
「そうね。
最低だと思うわ。
だけどそれでも、その時の私にはそれが最善の選択肢だった。
私には、一哉を幸せにできない。
私とじゃ一哉は幸せになれない。
だから、キッパリ終わりにするべきだと思ったのよ」
「そんな考えは詭弁ですっ。
終わりにするためなら、愛していた相手を傷つけてもいいんですかっ!?」
「もちろん傷つけたくなんかなかったわ!
だけど一哉が留学を諦めて日本に戻ってきてしまうことを止めるには、それしかなくて。
それに、今は無理でもいつかわかってもらえるだろうって、そう思ったのよ!」
にわかに大きくなった彰子さんの声に、『ごめんなさい、取り乱して』とポソリと眩いて、言葉を続けた。
「こんな弱い私よりも一哉を幸せにできる人が、きっといつか現れる。
言い訳に聞こえるかもしれないけれど、日本でひとりになってからの自分を思うと、本当にそう思えたの。
だから今は傷つけても、最終的にはそれが一哉のためになると……」
異国の地での愛を貫き通すことができなかった。
それは、自分の弱さ。
だけど別れを選んだのは嫌いになったからじゃない。
好きだったからこそ。
愛していたからこそ、選んだ別れ……。
「あたしにはわかりません、そんな話……!」
彰子さんはそれでいいかもしれない。
だけど、一哉はどうなるの?
一哉が自分の世界をつまらないと言っていた理由が、ようやくわかった。
大金を受け取ったって、一哉はちっとも喜んでなんかいない。
『こんなムダ金』と言っていた時の辛そうな表情が、いま、あたしの胸を痛いほど締めつける……。
もはやあたしは次の句も継げずに、ボロボロと涙をこぼし続けるだけだった。
そんなあたしの手に、ふいに温かいものが触れる。
彰子さんがあたしの手をとって、ハンカチを握らせようとしていた。
(今さらそんな優しさ見せたって)
逆に腹がたって、あたしはその手を振り払おうとする。
けれど次に彰子さんが告げた言葉に、その手は止まった。
「優しいのね、あなたは。
だから、あなたのおかげで、やっと一哉にもこの想いが伝わったのよ」
「え……?」
瞬時に意味が理解できず、あたしは泣きはらした顔のまま彰子さんをポカンと見た。
そんなあたしに、彰子さんは切なさと優しさの入り混じったような笑みを浮かべて、
「この間私達が会っていたのは、一哉の方から私に話があると言ってきたから。
最初から私があの場にいることをわかっていて、イベントに参加したみたいだったわ」
「……」
それはもう薄々気づいていた。
今思えば一哉が参加を決めたのは、プレシャスネット社長のスピーチがあると言った後だったから。
黙って見つめる視線をまっすぐ受け止めて、彰子さんは続けた。
「一哉は、この三年間すごく苦しんだと言っていた。
自分の夢も見失いそうなくらい悩んで、すべてがどうでもよくなって。
だけどもう、全部を水に流そうって。
最後には、そう言ってくれたのよ」
「……!!」
全部水に流そう。
一哉が、そんなことを?
「今はもう、私への未練も恨みも一切ないと、そう言ってくれた。
だから私も初めて、あの時の自分の想いを全部話したの」
あたしはどこか呆然として、彰子さんの言葉を聞いていた。
驚きと、一哉の思いがもう彰子さんにはないんだとわかった安堵。
そんな感情が入り乱れる。
彰子さんの声は、そんなあたしに染み込むように入り込んできた。
「一哉は、今ならその気持ちがわかると言ってくれた。
そして、言っていたわ。
自分がこんなふうに思えるようになったのは、それを気づかせてくれる人がいたからだって。
かけがえのない、大切な人に出会えたからだって」
「え……?」
トクンと胸が鳴り、火がともったように熱くなる。
彰子さんはまっすぐにあたしを見て言った。
「あなたのことでしょう?
香さん」
「あ……」
……言葉が出ない。
なんて言っていいか、わからなかった。
彰子さんはクスリと優しく笑って続ける。
「一哉を本当に幸せにしてくれる人に、ちゃんと彼は出会えたのね。
あなたが一哉に、愛する気持ちを取り戻させてくれた。
だから私の想いも、ようやく彼に通じた……」
「そんな」
再び溢れる涙を、押さえようがなかった。
嬉しい気持ち。
後悔。
情けなさ。
そして、一哉への想い。
うまく言葉にできない全部の感情が、熱い雫にのせられて頰から流れ落ちる。
「……一哉なりの、けじめだったんでしょうね。
自分は本当に過去のことは忘れて、今大切な人を守っていきたい。
そう言っていたから」
(一哉……!!)
あたしは何をしてたんだろう。
一哉はこんなに辛い過去を抱えながらも、あたしを想って、過去と決別する決意をしてくれていたのに。
あたしは……あたしは少しでも、一哉を信じてた?
ちっとも信じられてなかった。
ただ、あたしの知らない過去が、あたしに隠そうとする何かがあるのが、不安で仕方なくて。
やみくもにその不安にかられて、知りたくてどうしようもなくて。
「あたし、バカだ……っ!」
こんなりはちっとも優しさじゃない。
一哉を想っているから、なんかじゃない。
あたしの中にあったのは……単なるエゴ。
全部知りたいなんて、何を思い上がってたの、香?
そんなふうに思う前に、どうしてもっと一哉を信じてあげられなかった?
『愛してる』と何度も囁き合った相手を。
彼を信じて待てば、ただそれだけで、よかったのに……。
「ごめ……なさいっ……」
一哉に。
そして彰子さんに。
もはや鳴咽混じりにしかならないけれど、自然とその言葉が口をついて出た。
彰子さんは今度こそあたしにちゃんとハンカチを握らせて、
「謝ることなんてないわ。
……人を愛するのって、単純なようでいてとても難しい。
あなたを責める資格なんて、誰にもない」
「彰子さん」
彼女になかば強引に手を取られて、あたしは促されるまま涙を拭った。
ほんの少しだけ明確さを取り戻した視界の中で、彰子さんは穏やかに微笑んで、
「それに一哉、言っていたわ。
自分が今好きな人は、すごく不器用なんだって。
だけどそれは彼女が今まで人に自分をさらけ出せず、孤独に生きてきたからで……純粋さと優しさの裏返しなんだって」
『オレは、そんなアイツだから、愛しくて仕方ないんだ。
愛しすぎて過去を話すことでアイツが動揺し、オレの傍を離れていくんじゃないかと思うと、どうしてもこのことを話せなかった。
でも、もうそれも終わりだ。
オレは、過去の傷を乗り越える。
オレのためにも、アイツのためにも』
彰子さんの口を通して、一哉のその言葉を聞いた瞬間。
……もうあたしは、いてもたってもいられなかった。
一哉に会いたい。
今すぐ。
会って、謝りたい。
抱きしめたい。
そして……。
「ごめんなさい、あたしっ」
顔を上げたあたしを、彰子さんは『わかってるわよ』と言わんばかりの笑顔で見つめていた。
そして『最後にこれだけは』と、
「一哉にも同じことを言ったんだけれどね。
愛の形って本当に人それぞれだけれど、あたしは今、幸せよ。
だからあなたも、幸せになってね」
そんな優しさに満ちた言葉を、あたしにくれた。
……不器用なあたしはそれに返す言葉を、持ち合わせていない。
あたしにできるのは、ただ無言で頷くことだけ。
それでも気持ちは伝わったのか、彰子さんはフワリと笑い返してくれる。
あたしは支払いを置いて立ち上がり、彼女に一礼した。
今日は一日中走っているけれど、あたしの内から溢れる想いが、まだまだ体を突き動かしている。
彰子さんを残したまま店を飛び出すと、あたしは一目散に走り出した。
あたしの、世界で一番、大切な人に向かって。




