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そして店内が賑わってきつつあった十時少し前。
部屋に入ってきたボーイが、高々と声を張り上げる。
「井上様ご来店でーす!
珠奈さん、お願いします!」
「来たか……」
あたしはゆっくりと立ち上がってラウンジに出た。
ライトがきらめく店内を颯爽と歩き、ボーイの誘導する咳に到着すると、
「いらっしゃいませ、井上さん。
お待ちしてましたわ」
ニッコリと微笑むあたしの内心は、戦地に乗りこんだ兵隊さながら。
『見てなさいよ、井上一哉!』
そんな闘志に近い感情を胸に静々と一哉の横に座り、彼のリクエストしたお酒を作り始めた。
「急でしたから少し驚いたわ。
あたしのこと覚えててくれたなんて感激だけど」
うわべだけの言葉でそう言うと、一哉はフンと鼻で笑って、
「感激?
ホントか?」
「もちろんよ。
阿部さんのお供でなくてご自身で足を運んでくれるなんて、嬉しいわ」
「……ふーん。
オレはてっきりウザがられてるかと思ってたけどな。
お前、自分の都合のいい日しか来ないそうだから」
「……!」
不覚にも一瞬黙り込んでしまった。
(あたしが自由出勤だって知ってた!?
それじゃ、わかったうえで……)
……何よそれ。
嫌がらせ?
あたし前回、コイツを怒らせるようなこと、なんかした?
「ええ、そうだけど。
それでもあたしに会うために、お電話くれたんじゃなかったの?」
内心のイラ立ちを懸命に抑えて、あたしはむくれるような声を作って言った。
一哉はなんとも言えない無表情で肩をすくめると、
「お前に会うため?
まあそう言ってやってもいい。
薄っぺらで軽い女よりは、お前の方がまだ面白そうだ」
(……)
随分と毒を吐く一哉ではあるけれど、徐々に免疫ができてきたのか、さっきほどは動揺しないで済んだ。
あたしは口元に手を当てて微笑むと、
「面白そうだなんて、ありがとう。
でも薄っぺらで軽いだなんて、井上さんの周りにはそんな女の子しかいないの?」
「そんなのしかいないさ。
そんな女とは、話してたって楽しくもなんともないからな。
それなら珠奈の方が、まだ数倍はオレを楽しませることができると思って来てやったんだ」
ふてぶてしい態度で言い放つと、一哉はニヤリと笑う。
(調子乗ってんじゃないわよ)
心の中ではそう吐き捨てつつ、あたしは満面の笑みで『ありがとう』と答えた。
今日、ハッキリわかった。
自己中心的でやたら態度がでかくて、俗に言う俺様。
それが、コイツの正体だ。
前回は阿部さんがいたから猫を被っていたに違いない。
たしかに、親の威光をちらつかせるタイプじゃない。
だけど、とんでもない俺様思考だってことはもう間違いなかった。
(冗談じゃない。
アンタの思うままにことが進むと考えてるのなら、大間違いなんだから……!)
あたしは改めて珠奈を演じ切るための気合いを入れて、一哉が困るくらい散財させてやろうと思った。
ところが、ここでもまたあたしの思惑は裏切られる。
あたしが誘導するよりも先に、一哉が自分からどんどん高いお酒ばかりをオーダーしていったのだ。
中ランクのボトルから始まり、そうめったに出ないかなり高級な物まで。
ためらいもなくオーダーしていく姿は、こっちが面食らうほどで……。
(ちょ……ナンなのコイツ。
こんなに支払えるわけ……!?)
さすがに面と向かってそんなことは聞けないけれど、あたしは完全に疑っていた。
だっていくら親が会社経営をしてたって、一哉自身はついこの間までアメリカでお勉強してただけでしょ?
「井上さん、随分ペース速いようだけれど大丈夫?
あんまり飲み過ぎると潰れちゃうわよ……?」
散々飲ませようと思っていたのに、結局気づけば真逆のセリフを口にしていた。
でもホントに心配になるくらい、お酒を飲むペースがかなり速くて、この間の一哉とは別人じゃないかと思えるくらいだったから。
だけど一哉は、あたしの気遣いにもヒラヒラと手を振って、
「この程度で潰れるかよ。
いいだろ、オレが飲みたい気分なんだから、珠奈も黙ってつき合え」
そう言って、またグイッと、きついウィスキーをあおる。
「もう。
ヤケ酒じゃないんだから、もっと楽しく飲みましょうよ」
それは、何の気なしに言った言葉だったけれど。
それを耳にした一哉が、一瞬ピタッと動きを止めたのを、あたしは敏感に気づいてしまった。
(え?
もしかして?)
まさかホントに、ヤケ酒だった?
でもさっきからの会話は他愛ない世間話ばかりだし、機嫌もいたって普通だとしか思えない……。
「ごめんなさい。
悪いこと言ったかしら」
一哉の顔色を窺いながら、とりあえず謝った。
内心では『ヤケ酒なら最初からそう言ってよ!』って心境だったけれど。
「……」
一哉は無表情で、黙ったまま何も答えない。
仕方なく、あたしが場をなごまそうと、なにを言うか頭の中で考えていると……。
パシャッ!
……耳に届いた、軽い水音。
そして一瞬遅れて、胸の辺りに冷たい感触。
それと……鼻孔をくすぐる苦い香り。
この香りは……ウィスキー?
すぐには何が起こったのか理解できなかった。
でも徐々に状況が把握されるにつれ、あたしは頭にカーッと血がのぼってくるのを、どうしても押さえられなかった。
「な……に……」
自分のドレスの胸やお腹の辺り全体が、ウィスキーで濡れているのがわかる。
そのウィスキーは、さっきあたしが、一哉の手元に注ぎ入れたもの。
そう……一哉が、手にしていたグラスの中身をあたしにかけたんだ。
「……何すんのよ、アンタ……!!」
完全に状況を理解した瞬間、あたしは右手を振り上げていた。
こうなった理由だとか、今の自分の立場なんて、考える余裕はない。
とにかく、こみ上げる怒りで頭がいっぱいで、目の前の顔をひっぱたくことしか、考えられなくて。
だけど……。
「……!!」
振り上げたあたしの手は、目的を果たす前に動きが止まってしまう。
一哉の大きな掌でガッチリと手首を掴まれて……ピクリとも動かせない。
「何すんのっ。
離し……!」
「オイオイ。
ヤバイだろ、客にそんな口きいたら」
あたしの目を見ながらニヤリと笑った格弥は……次の瞬間、グイッとつかんだ手を引いて、あたしの体を抱き寄せた。
「!?」
一哉の胸に体を預けることになって、あたしはさらに混乱しまくる。
(な!!
ど、どういうつもりよっ!?)
「ボーイが来たら面倒だ。
騒ぐなよ」
耳元で響く、低い囁き声。
顔を上げ、キッと睨むと、一哉は鼻で笑ってあたしを見下ろしている。
「へー。
いい目つきじゃんか。
それと、さっきの『何すんの』って声もな。
やっとお前のホントの顔が見れた。
ちょっと手荒になっちまったけど」
「は……?
何言ってんの……!?」
もう、珠奈の口調や物腰を演じる気も起こらない。
今さら、そんなことどうでもよかった。
「あたしを怒らせたくて、こんなことしたって言うの……!?」
一哉の胸の中で、あたしは静かに、だけど鋭く言い放った。
一哉は悪びれた様子もなく、フッと笑うと、
「だからさっきも言ったろ。
オレは、うわべだけの薄っぺらい女なんていらないって。
内心『つまんねえ』って思いながら顔だけヘラヘラ笑ってるような珠奈になんて、興味ねえんだよ」
「……!!」
電気ショックみたいな衝撃が、体を駆け抜ける。
この感情をどう言葉で表せばいいのか、あたしにはよくわからなかった。
ひとつだけわかるのは、その言葉が珠奈じゃなく、香に……素のあたしに大きな衝撃を与えたということ。
言葉の出ないあたしに、一哉がもう一度、耳元で囁く。
「行くぞ。
今夜はオレのために空けとけって言ったの、忘れてないだろ」
「え……!?」
ハッと我に返った時には、もうあたしは一哉の腕の中にはいなかった。
一哉はあたしの体を離し、そして右手を上げてボーイを呼んでいる。
(な、何を……!?)
「悪い。
手が滑って珠奈の服を汚しちまった。
新しいドレスをプレゼントして詫びもしたいから、このままふたりで出るよ」
とても嘘とは思えない堂々とした口調でボーイに説明して、一哉は自分の上着をあたしに羽織らせた。
席で支払いを済ませると、ア然としているあたしの手を引いてソファから立たせて……。
……そうしてあたしはワケがわからないまま、一哉と一緒に夜の銀座に飛び出すことになった……。




