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その日は早く仕事が終わりそうだから、夜は一緒に過ごそうと前から約束していた日だった。
こんな時は、ちょっと気がとがめるけれど、いかにも仕事のような顔をしてふたりで外に出る。
だからあたしは先にエントランスに出てタクシーを停め、後から来る一哉を待とうとひとりで一階に降りていた。
急ぎ足で歩いて正面口を抜けようとした、まさにその時……。
「あ、橋本さん!」
背後から呼び止められて、あたしはピクッと振り返る。
笑顔で駆け寄ってくる、声の主は……。
「……大塚クン。
お疲れ様」
荷物を持っているから、今から帰るところなんだろう。
そんな彼はあたしの隣でピタッと足を止めると、
「お疲れ様です。
橋本さんも帰るところですか?」
「ううん。
まだこれから、社外で接待があって……タクシーを手配しに来ただけ」
すると大塚クンはロコツにガッカリした顔をして、
「あ、そうなんですか。
……大変ですね、遅くまで」
「まあ、そういう仕事だから」
大塚クンは『あっ』と声をあげてそれを引き止め、
「あ、 あの……よかったら今度、一緒に食事とかどうですか?」
「え?
食事って……あたしもう、時間とか全然わからない仕事だから」
「んなのかまわないですよ!
言ってくれたら、どんだけでも待ってますから!」
「いや、それは……」
やんわり断っているんだけれど、勢いづいてる大塚クンには通じなかったみたい。
彼はさらに一歩あたしの方へズイッと踏み出すと、軽く上擦ってる声でまくし立てる。
「副社長秘書になっちゃったけど、なんかもっと、橋本さんといろいろ話してみたくて。
め、迷惑じゃなかったら、ぜひっ……」
(イヤ、だから、迷惑なんだけど)
内心ではそう思いつつも、必死な感じの年下クンに、そこまでキツく振る舞うのもどうかと思って黙っていたら……。
「どうした、橋本さん」
突如割り入って響いた声に、あたしはハッとして声の方向を仰いだ。
(一哉……っ!)
エレベーターホールの方向から、颯爽と背筋を伸ばして歩いてくる長身。
……準備を済ませた一哉が、来てしまったんだ。
「うわっ、副社長……!」
隣で大塚クンが小さく叫ぶのが聞こえる。
あたしはあわててペコリと頭を下げて、
「す、すみません。
すぐにタクシーを……」
「いや、それは別にかまわないけど。
何かあったのかと思って」
あたし達の前に立った一哉は、様子を窺うように大塚クンとあたしを交互に見た。
「いえ、何も。
ちょっと立ち話をしてしまっただけですから」
「立ち話?
じゃあ、こっちの彼は……」
「……総務部時代の顔見知りです。
その……同じ派遣会社からの出向だったので……」
歯切れ悪く説明すると、大塚クンがハッとして一哉に頭を下げる。
「あ、えと……宣伝部でアシスタントをしている大塚一輝ですつ。
お疲れ様です!」
「大塚君か。
副社長の井上だ。
いつもどうもありがとう」
いかにも重役らしい堂々とした態度で、穏やかな笑みを浮かべる一哉。
でもなんか、わたしにはその笑顔が白々しく見えた。
「顔なじみと雑談してたってわけか。
珍しく橋本さんがもたついてるから、何かトラブルかと思ったよ」
「も、もた……!?」
何となくそんな気配は感じていたけれど、やっぱりだ。
もしかしてもしかすると……一哉、怒ってる?
「あっ、す、すみませんっ。
自分が呼び止めちゃったんです!
帰るのかと思ったから」
慌てて弁解する大塚クンにも、一哉はおおらかに笑って、
「いや、気にすることはないよ。
まだ時間にも余裕がある。
親しかった仲間となら、話が弾むのもムリはないからな」
快活な口調でそう言っているけれど、瞳の奥が少しも笑っていない。
「ベ、別に親しくは……!」
『ないです』と言おうとしたけれど、『うん?』と仮面のように作った笑顔で一哉に首をかしげられて、思わず声を飲み込んでしまった。
「……い、いえ……」
(もうっ、何を大人気ない怒り方してんのよ!)
たしかに今朝あんな話をしたばっかりだけど……。
しかも大塚クンはあたしをご飯に誘おうとしてたけど。
でもホールから歩いてきた一哉には、そんなの聞こえてなかったに決まってるのに……。
「い、行きましょう、副社長っ。
道が混んでいないとも限りません」
結局あたしは一哉にそう言って、ひとりで先に歩き出した。
一哉は意外そうな顔で大塚クンを指差し、
「もう彼と話はいいのかい?」
(だから、いいって言ってんでしょーっ!)
「……大塚クン、お疲れ様。
また今度ね」
「あ……!」
名残借しそうな顔をしながらも、さすがにこの状況じゃ大塚クンも何も言わなかった。
立ち尽くす大塚クンをその場に残して、あたしはさっさとタクシー乗り場に行ってしまおうとしたけれど……。
「副社長?
どうなさったんですか?」
ついてくる気配がなかったから振り返って確認すると、一哉はまだ大塚クンの隣にいる。
「副社長っ?」
もう一度呼ぶと一哉はようやくこっちに顔を向けて、『ああ、今行く』と返事をして歩き出した。
あたしは停まっていたタクシーに合図して後部席のドアを開かせ、その脇に立って一哉を待つ。
あたしの前を通り過ぎて車内に乗り込む時に、一哉は周りには聞こえない小声でポソリと言った。
「……だから言っただろうが。
このバカ」
「……っ!」
ピクッと肩を震わせつつも、あたしは無言でその後に続いて車に乗り込んだ……。
その後、あたし達は車で一時間以上もかけて会社から離れた場所へと移動した。
一応立場を考えて、ふたりの時間になっても極力社内外の人目を避けることを心がけているためだ。
そしてあたしはこの移動の間に、自分の中のスイッチを切り替えている。
秘書から、恋人へ。
香という、一哉のことを好きなただの女の子へ。
だからこの時間は、あたしにとっては別の意味でも必要な時間だった。




