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淡雪のように白に近い、小さな花びら。
「ああ。
窓開けてるから入ってきたんだろ」
そっか。
春らしいって、このこと言ってたんだ。
たしかにまだ満開の時期じゃないけれど、街のそこかしこでまばらに咲いた桜を見かける。
「まだ咲き始めなのに、春一番が飛ばしてしまったんですね」
差し出された花びらを掌で受けながらそう言うと、一哉は妙に艶っぽい笑みを返して言った。
「風も桜も、誘われちまったんだろ。
お前にさ」
「は?
何言って……キャッ!!」
言葉が、思わずもれた叫びで途切れてしまう。
一哉が席を立ち、あたしの腰に背後から手を回してきたから。
「ちょっと、離してくださ……!」
「……オレも誘われた。
お前に」
あたしの髪にくぐもった声をうずめながら、一哉はますます体をピッタリとくっつけてくる。
背中から伝わってくる体温が熱い。
(何言ってんの!?
誰も誘ってなんかいないでしょーがっ)
仕事中の、しかも朝イチから、何をへンなモードに入ってんのよっ。
あたしは一哉の腕から逃れるべく懸命に体をよじらせて、
「し、仕事中ですよ!
ダメです、やめて……!」
「ムリ。
朝からやたらキレイなお前が悪い」
「あたしはいつもどおりですっ」
これじゃ、ただのセクハラ上司。
あたしはいい加減にしろ!
とばかりに思いっきり身をひねった。
だけど一哉がまるでタイミングを合わせたかのように腕の拘束を緩め、あたしの体は180度グルリと回転する。
「えっ、きゃっ!」
まるでペアで踊るダンサーのように、一哉の腕の中で回って、向かい合った途端、強引に唇を奪われた。
「んっ……!」
乱暴に舌を絡める、性急なキス。
あたしを迫い立てようとしているみたいに熱くて、激しくて……。
(ヤダ……マジでやめて。
会社で、こんなキス……!)
今はまだ仕事中。
あたしは秘書で、あなたはその上司。
それなのにこんなキスされたら、あたしまで、理性保てなくなっちゃうよ。
頭の芯がボーッとしてきて今にも、おかしくなってしまいそう。
「一哉……」
副社長と呼ぶのも忘れてうっかり名前を口にしそうになった時、ようやく一哉はキスの呪縛を解いてくれた。
ホッと息をついて脱力するあたしを一哉はしっかりと抱きとめて、
「ま、今はこれで我慢しといてやる。
続きは夜までお預け、な」
「な……!?」
……何が、『お預け』よ。
ホントに、会社でこんなことするなんてどういうつもり!?
至近距離で一哉の顔を見上げ、抗議の意を込めてジッと睨みつけてやった。
すると一哉は強気なイタズラっぽい笑みを浮かべて、
「睨むなよ。
だから言ったろ、お前のせいだって」
「どこが」
(何があたしのせいよ。
勝手に発情してんのはアンタでしょーが)
だけど一哉はまったく悪びれた様子もなく、さらに続けてこんなことを言う。
「わかってないのか?
オレとつき合い出してから、お前、日に日にいい女になっていってんだぜ。
そんなお前と密室にふたりきりで、抑えろって方がムりだっての」
ドキリとしたのも隠せず、あたしは上擦った声をあげてマジマジと一哉を見た。
すると一哉はあたしの唇にピッと彼の人差し指を立てて、
「ホラ、また。
ったく……いつからお前、んな可愛い顔するようになった?
マジで押し倒したくなるからやめろ」
(え、えぇっ!?
いい女!?
可愛いっ!?)
一哉は困ったような言い方をしているけれど、困っているのはこっちだ。
あたしはいい女になったつもりも、可愛さをアピールしたつもりもサラサラないんだけど?
「あたしは、普段どおりですけど……」
困惑しながらそう訴えると、一哉はあきれたようにフンと鼻で笑って、
「やれやれ……自覚がないからよけいタチが悪いな」
(はぁっ!?
そんなこと言われても、ホントにそうなのに……!)
「メイクとか、見た目どうこうを言ってるんじゃない。
オレが言ってんのはお前の中身だよ」
「中身……?」
「そうだよ。
お前の中身……つまりハート、だろうな。
そういうのって、お前の目線とか表情とか、しぐさとか。
とにかくことあるごとに、いろんなところに表れてくるだろ。
それを言ってんだ」
「……」
あたしの中身。
ハート……。
静かな驚きが体を満たしていって、言いようのない不思議な感覚に襲われた。
そんなあたしに一哉は続けて、
「予想以上に可愛くなりやがって。
恋をすると女は変わるっていうが……正直変わりすぎだ、バカ」
「……!!」
言葉を失うあたしの顔をジッと見つめた一哉は、やがて何かの衝動を振り切るように、あたしの額に短いキスをしてから体を離した。
どこかふてくされた表情で、椅子を引いて自分の席に座りながら、
「気をつけろよ。
お前がいきなりキレイになって、社内でも色目使ってるヤツ、山ほどいるだろう」
「えっ?」
あたしは思わず目を見張る。
だってまさか、一哉がそんなこと言うだなんて思ってなかったから。
「気をつけるって何をですか。
周りなんて、関係ないです」
あたしは本気でそう思っていたからキッパリと答えたけれど、それでも一哉は凛々しい眉をスッとしかめて、
「お前がそう思ってたって、周りはそうじゃねえだろ。
どんなちょっかい出してくるヤツがいるかもわかんねえんだから、とにかく気は張っとけ」
とても冗談とは思えない口調で話す一哉。
(もしかして本気で心配してる?)
心配と……それにちょっと、嫉妬。
意外だった。
いつも自信に溢れてる一哉が、周りに対してそんなに心配していたなんて。
どっちかっていうと、ふんぞり返って『お前がオレ以外眼中にないのなんかわかってるんだぜ』とか言いそうなのに。
(一哉でもそんなふうに、心配したり不安を感じたり、するんだ)
何だか少し嬉しくて、あたしは一哉の顔をジッと見つめ続けた。
一哉はあたしから目をそらして仕事の準備を始めつつも、まだ『ったく……まいるよな』とかブツブツと眩いている。
余韻の残る額にそっと手を当ててその場に突っ立っていると、突然一哉がパッとこっちを見た。
「……コラ。
いつまでほうけてんだ。
コーヒーいれろよ」
そのむくれ声に、ようやく我に返って動き出すけれど……。
(ヤダ……。
なんでこんなドキドキしてんの、あたし……)
鼓動が早鐘のように速くて、頰も熱を持ったようにカッカと熱い。
恥ずかしさや、嬉しさ。
いろんな感情がごちゃ混ぜになって、あたしの心を淡いマーブル模様に染めている。
バタバタ足音を立ててコーヒーメーカーまで移動しながら、あたしは朱くなっているに違いない頰を隠すのに必死だった。




