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「お願いだから、もうあたしの前に現れないで。
あたしは……もう、アンタとは関わりたくないのよ」
これ以上あたしを、あたしの世界を、変えようとしないで。
胸の内でそう叫びなから、振り切るように吐き出した言葉。
一哉はそれを感情の読めない顔をして聞いていた。
ふたりの間に降りてくる沈黙。
一哉が何も言わないなら、いっそ今すぐ席を立ってこの場を走り去ってしまおうかと思った。
だけど、あたしが軽く腰を浮かした、まさにその時。
いつもどおり落ち着いているけれど、揺るぎない何か……そう。
覚悟のようなものを秘めた声で。
一哉はハッキリと、こう言ったんだ。
「嫌だ。
オレはお前を、離さない」
「一哉……!」
「逃げんなよ、香」
「!?」
ギクリ、と体が強張った。
縫いとめられたように再び腰をおろして、あたしは一哉を凝視する。
一哉も、曇りのない瞳でまっすぐにあたしを見返していた。
「な、何言って……」
「逃げんな。
逃げても、なんにも変わらない」
「逃げてなんか……!」
「逃げてるだろ。
オレからも、自分からも」
「っ……!」
ノドの奥に何かがつかえたように、それ以上の言葉は言えなかった。
ううん、違う。
それ以上言い張ることができなかったんだ。
『逃げてない』という言葉を。
黙り込んだあたしに、一哉は小さくひとつため息をついて……諭すようにゆっくりと、ひと言ひと言を区切って言った。
「お前がなんでそんななのか、さっきのやり取り聞いてたら、なんとなくわかった気がした。
それで確信したよ。
お前は怯えて、逃げてるって」
……やっぱり、さっきのるりちゃんとの会話はほとんど聞かれていたんだ。
苦い思いが広がる。
知られたくなかった……一哉には。
あたしがこんなふうに、今のあたしになったわけを。
こんな生き方しかできなくなってしまった、そのわけを。
「そんなに、人を信じるのは怖いか?
他人に心を開いて、自分をさらけ出して生きるのは、そんなに怖いのか?」
まっすぐにあたしを見つめて問いかける、一哉の瞳。
その瞳は、きっと幼い頃孤児院で母親を待ち続けた瞳と、母親を信じてあのマリア像に祈った瞳と、同じなんだろう。
(あたしには、もうそんな目はできない。
あたしは……あたしはもう、期待することをやめてしまった)
誰も迎えに来ないと悟った、あの日から。
「……一哉には、わからない。
一哉はちゃんとお母さんが迎えに来てくれたじゃない。
三年間はすごく寂しかったかもしれないけど、最後にはちゃんと……」
絶対に自分から話すことはないだろうと思っていた。
だけど気づくとあたしは、あふれ出る思いをそのまま言葉にして、一哉に話し出していた。
一哉は真剣な目であたしを見て、その言葉をしっかりと受け止める。
「お前には、誰も迎えに来なかった。
そう言いたいのか?」
「そうよ。
母親は、あたしがまだ小さい時に離婚した。
新しい恋人の所を渡り歩くような生活で、何年かは育ててくれたけど……そのうち、嫌になっちゃったのね」
あたしが七歳の時。
母親は、ほとんど交流も途絶えていた自分の親、つまりあたしの祖父母の家の前にあたしを立たせ、自分は姿を消した。
連絡先も、どこに行ったのかもわからない。
もう二度と会えない。
母親は、あたしを捨てたんだ。
「それから二年だけは、祖父母と生活した。
だけどふたり共病気がちで、すぐにあたしを養うのは大変になって。
祖父母が介護施設に入ることになった時に、別の親戚に預けられたの。
それが……さっきの、あの女の子の家。
あの子はあたしのいとこよ」
あの家での生活は嫌なことばかりだった。
だらしない性格のあたしの母は昔から嫌われていたみたいで、あたしも嫌々面倒を見させられることになったお荷物でしかない。
すでに可愛い娘のいるあの家で、あたしに向けられる愛情や思いやりなんてものは少しもなかった。
だからあたしはなんの主張も要望もせず、ただそこに住まわせてもらうためだけに、おとなしくすることを身につけたんだ。
わがままなんて言わない。
意見なんて言わない。
どんなイヤミを言われたって、黙ってそれを受け入れる。
ただ、かりそめの寝床を失わないために……。
あたしは期待することも、喜ぶことも、悲しむことも。
全部の感情を、幼い体の中に封じ込めた。
そうするしか、あたしがあの家で生活していく方法はなかったから。
「わかった?
これがあたしなの。
高校の時必死でバイトして貯めたお金で卒業と同時にひとり暮らしを始めたけど、だからって何か変わるわけじゃない。
生き方なんて変えられないのよ」
今さらこの世界に何を期待しろというのか。
何を信じろというのか。
何もない。
あたしが信じられるのはあたしだけ。
それ以外には、何もないんだ。
言い切ったわたしを、一哉は思いつめた目でジッと見ていた。
張り詰めた空気がふたりの間を支配する。
やがてその空気を破って一哉が発したのは、不思議な自信に満ちた、凜とした声だった。
「……変えられる。
生き方も、世界も。
それに、お前自身も」
「一哉……?」
(ウソだよ。
どうしてそんなことが言えるの?
当のあたしがムリだって言ってるじゃない)
心の中ではそんな反論が渦巻いている。
だけどあたしは、その声と強い光をたたえた瞳に吸い込まれるように、ただ言葉も忘れて彼を見つめていた。
そんなあたしに一哉が投げかけた次の言葉は。
それは、あたしの体を貫き通すほど強い力を持った、あの言葉。
「言ってるだろ。
オレが、お前の世界を変えてやるって。
……何度も言わせんじゃねえよ」
「一哉」
やめてよ。
まだそんなこと言ってるの?
あたしのこんな過去を聞いてもまだ?
そう思うのにどうしてだろう。
視界がぼやけそうなくらい、目頭が熱く感じるのは。
「勢いだけで言ってるならやめて。
おせっかいも同情も、あたしはいらないのよ」
精一杯の虚勢で口にするのは、ただの強がりだ。
そんなことももうハッキリわかっていた。
だけど一哉はその強がりにさえも、真剣な瞳で答えてくれる。




