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「……香っ!!」
周りの制止の声に混じって。
聞き覚えのある……低くて懐かしい声が、聞こえた。
え?
凍りついたように動きを止めるあたし。
すると無防備になった隙を逃すことなく、るりちゃんの平手があたしに襲いかかる。
ヒュッと空を切る音と共に掌が眼前まで迫り、ぶたれるのを覚悟した。
だけどその掌は、あたしの顔に触れる寸前で止まる。
たくましい腕が、しっかりとるりちゃんの手首をつかんでいた。
そして再び耳に届く、あの懐かしい声。
「悪いが、コイツには手は出させない」
「一哉……!」
「何よっ、アンタ誰っ!?」
あたしの声を遮って、先に食ってかかったのはるりちゃんだった。
彼女もすっかり平常心を失っていて、噛みつかんばかりの勢いで自分の手を握る介入者を睨みつける。
「邪魔しないでよっ!
先に手を出してきたのはあっちなんだからっ」
血走った目で迫られても、彼は冷静だった。
るりちゃんの手を降ろすと自分が間に入るように立ち、さりげなくあたしをかばってくれる。
見覚えのあるスーツの、広い背中と肩。
そしてその肩越しに斜めに覗く顔は、間違いなく……。
「一哉……!!」
ようやくその名前を呼ぶと、一哉はチラリとあたしを見た。
その顔は、かすかにだけど微笑んでいるように見える。
「よお。
久しぶり」
短くそれだけを言って、一哉は再びるりちゃんに向き直ると、
「それでも、香は殴らせない。
わりぃな。
オレ、コイツの顔、気に入ってんだ」
静かだけど迫力のある声で、キッパリとそう言い切った。
その不思議な気迫に、るりちゃんは一瞬たじろぎながらも、
「何言ってんの?
あ、もしかしてアンタ客?」
「客じゃない。
オレは……コイツの上司だ」
「はあ!?」
『何言ってんの?』という感じのバカにした声を出されても、一哉はまったく表情を変えない。
むしろこれ以上話をする気はないのか、一哉は涼しい声で『そういうことだから』と告げると、クルリとあたしに向き直った。
そして、
「行くぞ、香」
「えっ!?」
強引に腕を取られてあたしは狼狽する。
「行くぞって 、あたしまだ仕事中……!」
「んなもんどうでもいい。
どうせ辞めんだから」
「えっ、ちょ、ちょっと待ってよ!」
騒ぎの輪の中心を抜け出てズイズイ歩き出した一哉。
その手に無理やり引っ張られてよろめきつつ歩きながら、あたしは一哉に叫ぶ。
「辞めるって……どういうことよ!?
なんでアンタがそんなこと……!」
さっきは自分で辞めなきゃと思ったくせに矛盾しているけれど、責めるようにそう言うと、
「うるせえっての。
オレはあの辞表、受理なんかしてねえぜ。
だから、迎えに来たんだ」
「……!!」
ドキン、と。
心臓が、これ以上ないくらいに跳ねた。
その驚きの感情の中に……それとは違う別の感情が混ざっていることに、あたしは気づいていた。
切なく、甘く、胸を締めつける苦しさ。
この気持ちの正体は……。
「ホラ、さっさと歩けって。
追ってこられたら面倒だから、車乗っちまうぞ」
「あっ……!」
一哉がさらにグイッとあたしの手を引いて、車道ギリギリまで出るとタクシーを停めた。
もうあたしは抗議の言葉もない。
促されるまま、停車したタクシーに乗り込む。
あたし達を乗せた車は、ネオンの煌めく虚像の街をゆっくりと滑り出し……窓の外に人間たちの一夜の姿をシネマのように映しながら、静かに走り続けた。
ネオン街を離れて一哉がタクシーを停めたのは、都内にある有名な老舗ホテル内のバーラウンジだった。
シラフじゃとても顔合わせてなんていられないし、あたしのドレスが浮かないようにという配慮なのかもしれない。
いずれにせよもう反論する気もないあたしは、一哉に背中を押されるままそのバーに入った。
カウンターの隅の方の席に着くと、一哉が適当にカクテルをオーダーする。
しばらくして出てきた琥珀色のカクテルは意外と甘くて、それが少しあたしの心を落ち着けてくれた。
自分もカクテルを一口飲んでから、一哉は淡々とした口調で言葉を紡ぎ出す。
「……珍しいな。
お前があんな公衆の面前で感情さらけ出して騒ぐなんて」
なんて言葉を返していいか、わからなかった。
さっきの行動がまるっきりあたしらしくないことは、自分自身が一番よくわかっている。
それに、そんな姿を一哉に見られていたと思うと、気まずさや恥ずかしさがごちゃ混ぜになって、できれば何も聞かないでほしい、
そう思った。
だけど同時に、一哉があたしとるりちゃんの言葉をどれくらい聞いていたのか……どれくらい知られてしまったのかは、無性に気になってしまう。
そんなあたしの心を知ってか知らずか、一哉はあたしが何も答えないのを見てとると、また続けて話し出した。
「何があったかは知らねえけど。
とにかく、もうあの店は辞めろ。
つーかもう、夜の仕事自体辞めちまえ」
いつもどおりの当然のような命令口調。
以前なら『何言ってんの!?』と目くじらたてて切り返しているところだけれど、今夜は正直たいしてムカつきもしない。
それでも言葉だけは条件反射のように口をついて、あたしはまるで他人が話しているかのような感覚でそれを聞いていた。
「辞めろって簡単に言わないで。
働かなきゃ、そのうち生活していけなくなるじゃない……」
すると一哉はこっちに顔を向け、ロコツに眉をひそめて、
「あのな。
だからさっき言ったろ。
あの辞表は受理されてねえんだよ。
お前はまだ、うちの社員だ」
「……知らない。
アンタがなんて言ったってあたしはもう辞めたの。
あたしはもう……アンタの秘書でも、社員でもない……」
ウソだ。
言いながら、もうひとりのあたしが内側から叫んでる。
ホントはとっくに気づいてる。
一哉が『迎えに来た』と言ってくれた時も、今も。
心の奥底では、あたしは一哉の言葉を嬉しいと思っている。
もちろん待ってたつもりなんてない。
本当にもう二度と会わないつもりだったし、会社に戻るつもりもなかった。
だけど一哉がまだあたしを求めて、探してくれて。
そして今、戻って来いと言ってくれるその言葉に、あたしの胸は震え、涙が溢れそうなくらいに喜んでいる。
だけどだけど、やっぱり。




