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「もっといい女になれって。
そんで、オレのことを好きになれ。
お前なら変えてくれそうな気がしてんだよ。
オレの、世界をさ……」
「一哉……」
声は唇に飲み込まれる。
もう、何度となく重ねた。
吐息も許されないくらい情熱的で、深くて体がくずおれそうになるほどのキス。
やめてよ。
こんなキスしないで。
このキスもゲームの一部だっていうなら、こんな最悪なゲームってない。
「やめてっ!」
あたしは体中の力を振り絞って、必死の思いで一哉の厚い胸を突き飛ばした。
一哉はソファの背もたれにトンッと背中をついて、見開いた目でこっちを見ている。
「……なんなの、ゲームって……」
このゲームの先に見えるものは、何?
ゲームに巻き込まれたあたしの先にあるのは、何?
「あたしにアンタの世界なんて変えられない。
アンタなんて、好きにならない……!」
震える声で叫んで、あたしは立ち上がった。
一哉が引き止めようとするのもかまわずに、そのままテーブルを離れる。
ボーイや近くのテーブルの女の子が何事かという顔で近寄ってくるのが見えた。
だけどあたしはそれを振り切るように通路を走り出すと、一目散に化粧室に駆け込む。
ドアをトントン叩いてあたしを呼ぶママの声にも答えずに、あたしはしばらくそこで、声も出さずに涙を流し続けた……。
その夜、あたしは夢を見た。
広くてキレイな洋館の庭で、 数人が集まってパーティーをしている。
メンバーは社長と勇クン、社長のご主人なのか見知らぬ男の人。
そして一哉と、あたし。
パーティーの主催者は森田社長。
そしてあたしは、そこに招かれたゲストだった。
おいしそうなお料理を囲んでニコニコしているみんな。
はずむ会話は、家族の思い出話や近況報告、お互いを気遣う言葉。
ステキなパーティーだった。
ステキな、家族の団らんの光景だった。
そしてその光景の中に……あたしはどうしても溶け合うことができず……笑顔を貼りつけて話を合わせながらも、内心ではずっと疎外感を感じていた。
あたしの知らないぬくもり。
あたしの知らない愛情。
それに焦がれ輪の中に混ざりたいと思うのに、どうしても本当の意味で彼らと完全に溶け合うことはできなくて。
結局あたしは、切なくて胸が苦しくなるような思いを抱えたまま、パーティーを終えた。
……同時に夢から目覚めて、気づくとあたしは見慣れた部屋の天井を眺めている。
(イヤな夢……)
普段、夢なんてそんなに見ない。
こんなにも鮮明でリアルな夢を見たのは、きっとかなり久しぶりだ。
(なんでこんな夢、見ちゃうのよ)
苦々しい感情が胸を支配していた。
(やっぱりダメだ。
このままじゃ……あたし……)
求めちゃいけない。
憧れちゃいけない。
その感情は、危険。
知ってるはずよ、香。
何かを求めることに意味なんてないって。
求めれば、よけい悲しい思いをすることになるだけだって。
あたしはそれを遥か昔に学んで、そうして、ひとりで生きていくと決めたんだから。
あたしは薄暗い室内で、壁の時計を確認した。
五時。
出勤の用意を始めるには相当早いけれど、静かに布団を抜け出す。
シャワーを浴びて着替えをして、他にもいろいろ準備してから、いつもより一時間以上も早く家を出た。
こんな時間に会社に行っても、きっとまだ誰も来ていないだろう。
一哉だって、いない。
でもそれでよかった。
むしろ、そのために早く来たんだから。
スペアの鍵で、自分で鍵を開けて副社長室に入った。
室内は電気もついておらず、当然誰もいない。
ドアの所で一瞬立ち止まったけれど、すぐに再び歩き出して一哉のデスクの前に立った。
「……バイバイ」
バッグから出した小さな白い封筒を、そっとデスクに置く。
さっき家で書いてきた、辞表。
封筒から手を離すと、あたしはひとつだけ小さく息を吐き・
そうして次の瞬間、振り切るようにきびすを返すと一歩を踏み出した。
それ以上振り返ることはない。
まっすぐ歩いて、あたしは無言で副社長室を後にした。




