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「それじゃあ、井上さんはアメリカから帰ってきたばかりなんだ!?
すごーい、どうりでなんか空気が違うと思ったぁ!」
キャッキャと騒ぐアンナの声を聞きながら、あたしも内心へえっと思っていた。
話を進めるうちにわかったこと。
ふたり目の客である井上一哉は、阿部さんの昔の仕事仲間の息子らしい。
だけど日本で大学院を出た後はアメリカに留学していて、つい最近帰国したばかりなんだそうだ。
海外に出た理由は親の仕事に協力するためのビジネス留学で、これからは彼もバリバリ日本で仕事をする予定なんだとか。
(親が社長、か。
なるほどね。つまり、生まれながらのエリートお坊ちゃんってわけだ)
全身から醸し出される堂々としたオーラは、そのせいかもしれない。
(だけど……単なる、親の七光とはちょっと違うみたいね……)
こういう場所じゃザラに見かけるような、親が偉いだけなのに、自分は何でもできると思ってるヤツ。
最初はこの一哉もそうかと思ってたんだけれど、一時間も経つ頃には、その予想が間違ってたって、ハッキリ気づいた。
だってこの男、一哉は自分から親の話なんてしようともしないし、阿部さんが『一哉クンの家はすごいんだ』と話を振っても、『やめてくださいよ』と言って、顔をしかめている。
親が自慢どころか、どっちかっていうと親の話を出されるのもイヤみたい。
(親の仕事を手伝うために留学までしてたくせに、変なヤツ。
あ、もしかしたらビジネス至上主義のすごい厳しい家で、仕事手伝うのも嫌々とか?)
どこかつかめない初めての客に、あたしはついついそんな想像を膨らませながら、いつものように接客していたんだけれど……。
「……?」
やけに熱心に自分に注がれる視線を感じて、あたしはその方向に目をやった。
視線の主はほかでもない一哉。
だけど、あたしに見とれているとか、そんな感じじゃない。
なんていうか……そう、まるで昆虫でも観察するみたいにジロジロ眺める、まったく遠慮のない目線。
「なあに、井上さん。
あたしの顔に何かついてる?」
あたしはポーズで艶やかに微笑みながらも、ハッキリ聞いてやった。
すると一哉は驚いたように目を丸くして、
「顔?
イヤ、別に何もついてないけど。
なんでお前、そんなにつまんなそうなのかと思ってさ」
「!?」
そのセリフを聞いた途端、あたしだけじゃなく一哉以外の全員が、驚きでピタッと会話をとめた。
だけどあたしだけは、驚きにもうひとつ別の感情も混じっている。
冷たく、背中が強張ってしまうような。
そう、焦りに近い感情。
「……つまらなさそうだなんて……どうして?
あたし、おふたりのおかげでとても楽しんでいますけれど?」
珠奈の顔でそう取り繕うのには、ちょっとだけ時間がかかってしまった。
初めてだ……お客にこんなこと言われたのは……。
「おいおい一哉クン、アメリカのお祭り騒ぎのノリが染みつきすぎてるんじゃないか?
日本に帰ってまで向こうのパーティーのノリを求めちゃいかんぞー!」
阿部さんがワハハと笑いながら言う。
この人は……ホント、どこまでもノーテンキで平和な人だな。
だけど今はその無頓着さがちょうどよかった。
あたしも便乗するようにクスクス笑って、
「イヤだわ、欧米のパーティーのノリだなんて、あたし達にはわかりませんよ」
『ねぇ?』と凛華とアンナにも話を振って、そのまま煙にまいてしまおうとする。
凛華達も『ごめんなさーい!』なんてかわいく笑ってくれたから、その場の空気はとりあえず取り繕えた。
だけど一哉は納得したのかしてないのかわかりかねる声で『へえ、そうか』とだけ呟いて、涼しい顔でまたお酒を飲み始める。
結局その後も、一哉は適当に阿部さんと話を合わせながら、黙々とお酒を飲んでいるだけだった。
(なんなのよ、コイツ……。
ホントよくわかんないヤツ……!)
場の空気は和んでも、あたしの心は一向に落ち着かない。
本当に……こんな客は初めてだ。
ご機嫌に笑うことも、自己主張もしなければ、あたしに向かって『つまんなそう』ですって?
そんなはずはない。
……むしろあたしは、つまらない日常を忘れるために、ここに来ているのに。
(変なお客に当たっちゃったわ。
今夜はついてない……)
得体のしれない胸のざわつきを覚えながら、あたしはその日のバイトを終えた……。
それから数日後。
昼休みにバッグの中をチェックしていたあたしは、ハッと息をのんだ。
あたしのバッグの中には携帯がふたつ入っている。
ひとつは自分、イヤ、正確に言えば香の。
そしてもうひとつは、店から借りている珠奈のもの。
その珠奈の方の携帯に、着信があったことを示すランプがついていた。
いつもみたいに出勤を催促する常連からの電話かと思ったら、ディスプレイに映っているのは意外な人物の名前。
「ウソ……井上さん……!?」
そう。
そこに表示されているのは、間違いなく『井上一哉』の四文字。
(なんでコイツから電話かかってくんのよ……!?)
阿部さんの知り合いってことで一応連絡先は交換して、メモリにも入れておいた。
でも、そもそも一哉は阿部さんに呼ばれて来ただけ。
もうお店に来ることも、もちろん電話がかかってくることもないと思っていたのに……。
「なんで……わざわざ……」
留守電にメッセージは入っていない。
あたしは仕方なく、ランチしていた店から会社に戻る道すがら、一哉に電話をかけた。
着信があった以上、コールバックするのはルールだら。
何度かコール音が続いた後、応答する声が耳に飛び込んでくる。
『はい、もしもし』
間違いない。
体に心地よく響く低音。
一哉の声だ。
「井上さん?
あたし、ウェヌスの珠奈です」
『うん、わかってる。
こっちからかけたんだからな』
電話口からは何を今さらと言わんばかりの声が返ってくる。
あたしは冷静さを保つよう意識しながら、
「ご無沙汰しています。
お電話出られなくてごめんなさいね。
どんなご用件でしたかしら?」
と、丁寧に尋ねてみた。
すると一哉はサラッとした口調で、
『ああ。
今晩行こうかと思ってな。
お前を指名するから待ってるように伝えるつもりだったんだ』
(えっ!?)
口をついて出かけた声を、あたしはかろうじて飲み込んだ。
(今晩!?
指名って、あたし今日行く予定なんかないし……!)
阿部さんからあたしが常勤じゃないって聞いてないの?
もちろん、本来なら自分から言っておくべきだったんだけれど、一哉がまた来ることなんてないだろうと思って、伝えることすら忘れていた。
(そんなに気に入ってもらったようには見えなかったのに、どういうことよ!?)
ワケがわからないけれど、とりあえず説明するしかない。
あたしはあくまで自分が行きたい時にだけ、あの店に行くんだから。
お客にあたしが合わせるなんて、まっぴらゴメン。
「ごめんなさい、井上さん。
あたし今日は……」
『お店にはいないの』と話そうとしたのに。
一哉はそれを最後まで聞こうともせず、一方的に話しかけてくる。
『十時くらいになるかな。
オレひとりで行く。
今夜はラストまでオレだけの相手をできるようにしておけ』
そして信じられないことに、一哉がそう言った途端、電話はプツッと切れた。




