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ウェヌス。
この空間は、現実であって現実じゃない。
動くホステスも源氏名という仮面を被り、訪れる客だって、現実なんか求めていない。
そう、男達は時に、現実を忘れるために、この店の扉を叩く。
つかの間の安らぎを求める男が、虚像の女と戯れる場所。
それが、夜の世界。
非現実の中で繰り広げられるゲーム。
あたしはここでなら、ほんのひと時だけ現実を忘れられるということに気づいて……その夜以来、珠奈は、もうひとりのあたしとして定着した。
香の毎日に飽きたり、何かムシャクシャした時には、ウェヌスに出勤する。
ここでおいしいお酒を飲みながら、思う存分もうひとりの自分を演じていると、不思議とストレスも吹き飛んだ。
「いらっしゃいませ、阿部さん。
お待ちしてましたわ」
久しぶりに会うということもあって、いつも以上に満面の笑みで席に着く。
「おお、珠奈!
待ちかねたのはこっちだよ。
どれだけぶりだ?
本当にお前は、たまにしかいないんだから」
「ごめんなさい。
あたしも、お会いできてホントに嬉しいです」
そう言って、あたしは阿部さんに水割りを作り始めた。
この銀座で貿易会社を経営している阿部さんは、50代半ばの気さくなオジサマ。
あたしが入る前からこの店の常連で、他の多くの客と同じように、趣味とビジネスを兼ねてよく利用してくれている。
あたしが初めて接客したのは、バイトを始めて二ヶ月程度の頃。
当時阿部さんには別のお気に入りホステスがいたんだけれど、その人のヘルプで入った時に、すごくあたしを気に入ってくれ、それからは出勤する時は必ず連絡しろって言われていた。
「ところで、今日はおひとり?
珍しいのね」
グラスを差し出しながら聞いてみる。
接待ならもちろん、ただ自分が飲みたくて来る時も、阿部さんはめったにひとりでは来ない。
たいがい部下なんかを連れてきて、賑やかに飲むのが好きな人だから。
まずは水割りでグビッとノドを鳴らすと、阿部さんは軽く首を横に振って、
「いや、連れはいるんだが、会う場所を急に変更したもんだから、少し遅れてるんだ」
「まあ。
今日は、別の場所に行かれる予定でらしたの?」
電話ではそんなこと少しも言ってなかったけど。
つまり、あたしが阿部さんに電話したせいで、先約の相手と会う場所をここに変えちゃったんだ。
「お目にかかれたのは嬉しいけれど、なんだかお相手には申し訳ないわね」
少し困惑していると、阿部さんはガハハと笑って、
「お前が気にすることはない。
久々に珠奈に会えるとあっちゃ、来ないわけにはいかないだろう。
それに相手は俺の息子みたいなもんだから、気を遣う必要もない」
「息子?」
あたしはキョトンと首をかしげた。
阿部さんは50代ながらも独身だ。
だから当然、自分の息子ってことはないんだけれど、『みたいなもの』ってどういう意味?
あたしの疑問を悟ったのか、阿部さんは、
「知り合いの息子なんだよ。
久々に会うんだが、もういい大人だし、こういう所もいいんじゃないかと思ってな」
「ああ、そういうことなのね。
それで、そのお連れ様はいつ頃……」
『ご到着予定?』と聞こうとした時、あたし達のテーブルにボーイが近づいてくるのに気づく。
そしてそのボーイに案内されて、後ろにもうひとり別の男が……。
(え……?
ま、まさかこの人!?)
ア然とするあたしの前で、ボーイは阿部さんに向かって、声をかける。
「阿部様、井上様がご到着なされました」
「おお、着いたか。
よし一哉クン、こっちへ来い!」
阿部さんは満面の笑みでその男を手招きして、コの字を描くソファの、あたし達の斜め向かいに座らせた。
男は涼しい顔をして、ストンとそこに腰をおろす。
それを確認したボーイは、他の女の子を呼ぶため、すぐに去っていった。
だけどあたしは新しいお客様をもてなすのも忘れ、一瞬ボーッとしてしまう。
だってその男が、阿部さんの連れ、というイメージからは想像もつかないくらいレベル高かったから。
(ま、まぁ本当の息子じゃないんだから、似てなくたっておかしくないけど……)
だけどそれにしても、この人はちょっと別世界の空気。
たぶん180センチを超える長身に、絞まった体付き。
だけど肩幅は広くて、腕と足を組んでソファを座るその姿は、やたら堂々としている。
髪は黒髪で、少しだけクセのある長めのスタイルが大人っぽい。
そして何より一番驚きなのは、その顔。
ちょっと太めの凜々しい眉に、やや鋭い切れ長の目。
鼻筋は通っていてアゴのラインはシャープで、唇は薄くて形がよくて……。
コワモテと言えなくもない迫力を漂わせる。
とにかく、イケメン。
(何なの、この人、もしかしてギョーカイ人?)
こんな芸能人いたっけ……とか考えながら、その人の顔を眺めていたら、いきなり『ハッハッハ!』と、大きな笑い声が聞こえた。
ハッと我に返って声の方を向くと、阿部さんがあたしを見てまだ笑っている。
「おいおい、そんな珠奈の顔は初めて見るぞ。
どうした?
一哉クンのあまりの男前ぶりに驚いたか?」
「あ……」
ヤバい。
あたしってば、接客も忘れて……。
「ごめんなさい。
阿部さんのお連れにしては、ずいぶんお若い方だったから……」
とっさにまともな言い訳もできず、あたしは内心舌打ちしたい気分。
だけど阿部さんは普段の珠奈らしからぬ態度がえらく愉しいらしく、ご機嫌な様子で、
「ハハッ、そうだろうなあ。
一哉クンはどこに行ってもモテモテだからな」
「何をくだらないことを言ってるんですか、阿部さん。
まったく数年ぶりの再会だってのに」
初めてその男、一哉が言葉を発した。
体に心地好く響く、低い声だ。
「ん?
キミは相変わらずそっけないなあ!
それなのに女にはモテるんだから、本当にタチが悪い!」
ガハハと笑い続ける阿部さんに、あきれた様子で足を組み直す一哉。
その時、ふたりの女の子、後輩のホステスの凛華とアンナがヘルプで席に着いて、テーブルは一気に賑やかになった。
あたしと凛華、アンナの三人は改めて自己紹介して、ふたりのお客様の相手を始める。
だけど、一哉は全然表情を崩さずに、相変わらず尊大な態度でソファにどっかと座っていて。
つまらなそうには見えないけどでもどこか、あたしが見てきた今までのお客とはタイプが違う。
(なんなの、コイツ……)
いつものように、男を掌で転がすつもりだったのに。
予想外の展開に少し戸惑いつつ、その夜は幕を開けることになった……。




