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その日の午後。
入社手続書類を担当しているあたしは、部長に言われたとおり副社長室に書類を受け取りに行かなければいけなくなってしまったけれど……。
(はぁ……ぶっちゃけ行きたくないなぁ)
席を立った後もしばらく、立ち尽くすあたし。
頼めば喜んで代わりに行っていってくれそうな女子はいくらでもいた。
でもあえて頼む理由が何もない。
そんなに忙しい部署じゃないんだ、うちは。
『副社長に会うの緊張する』とか言うのも、寡黙に仕事をこなすあたしのキャラじゃないし……。
(……仕方ないか。
どうせ向こうは気づいちゃいないんだし、サッサと受け取って出てくればいいよね)
やっと決心して、あたしはオフィスを出た。
副社長室はたしかひとつ上の階。
その階には社長室や他の重役の部屋、彼らが使う応接室など、上層部しか出入りしない部屋が集まっている。
派遣社員のあたしには今までまったく縁のないフロアだった。
幾分緊張しながらエレベーターに乗って移動して、静かな廊下をドアプレー卜を頼りに歩き、目的の部屋を見つける。
(……着いた。
まだ誰かと一緒かな)
室内から特に話し声や物音は聞こえないけれど。
あたしは深く深呼吸してから、思い切ってドアをノックした。
ひと呼吸おいて、あの低い声がドアの向こうから応える。
「どうぞ」
「……失礼します」
小さくドアを開けて中に入った。
初めて足を踏み入れた副社長室は品のいい調度品を使ってはいるものの、執務用のデスクと応接ソファがあるだけの普通の部屋だった。
「ああ、キミは……」
正面のデスクに座っている一哉が言う。
部屋には彼ひとりだった。
「総務部の橋本です。
入社書類をいただきにあがりました」
淡々とした口調で言ってデスクに歩み寄ると、
「そうだったな。
ありがとう」
「いえ」
事務的に頭を下げて、書類を渡してくれるのを待っていると、すぐに一哉は引き出しからクリアケースに入った書類一式を差し出してくる。
『ありがとうございます』と受け取って、あたしはすぐに辞去しようとした。
ところが、
「あ、ちょっと待って」
呼び止める声に、あたしはピクッと体を震わせてしまう。
「なんでしょうか?」
「ええと、保険証はいつ頃もらえるのかな?」
(は!?
んなもん別に急がなくていいじゃないっ)
そう叫びたいのを必死で堪えて、
「今月中にはお願いします。
今月の就任ということなので」
「……一、二週間でお渡しできると思います」
「そうか。
ここは、理美容健康保険組合になるのかな?」
「そうですけど」
(ああもう、こっちは内心ドキドキしてるのに、なんでそんなどうでもいいようなこと聞いてくんのよ)
そんなあたしの苛立ちが通じたかどうかは知らないけれど、ようやく納得した顔で、
「そうか、わかったよ。
どうもありがとう」
そう言って、一哉は受け取った書類をパサリとデスクに置いて……そして、それまでとまったく変わらないごく普通の声で、まるで世間話をするように続けた。
「どうやらこっちでもまともに働いてるみたいだな。
なかなかやるじゃないか」




