002 『日の目を見れない指輪』
「……婚約って、破棄になってなかったの?」
その一言で、幸せになるはずだった未来が音を立てて崩れた。
今では長い髪を風になびかせ、凛とした佇まいの彼女――かつては男として生きていた。
彼女の母が産んだ第一子が女であったため、領地の継承に支障をきたすという一族の意向により、彼女は男として育てられた。
だが、従兄弟を跡取りとして迎え入れることになり、その「役目」を失う。
親に振り回された人生に慣れていた彼女は、特に気に留めることもなく、ただ前を向いて歩き続けていた。
俺がその事実を知ったのは、彼女が女であると明かしてからさらに数年が経ったあとだった。
――時すでに遅し。この言葉がこれほど似合う出来事は、そう多くない。
そもそも俺は、女性と同じ空間にいるだけでも緊張してしまう人間だった。
ましてや会話ともなれば、まともに言葉すら出てこない。
彼女はそんな俺の性質を知っていたはずだ。
それでも彼女は女であることを隠し、ずっと傍にいた。
だからこそ、女だと知ったとき、裏切られたように感じtあ。
そして今――久しぶりにプライベートで交わした言葉が「婚約破棄」だった。
女だと知った後に言い渡された「婚約」だけが、唯一のつながりだったというのに。
「え、と。あー……」
「ん?」
「いや、その……」
視線が交わる。
彼女から見れば、俺などただの不審者にしか見えないだろう。
本当は、手作りの指輪を渡してプロポーズするつもりだった。
けれど、する前に振られた。
いや、彼女からすれば、婚約も結んでいなければ、恋人ですらない、ただの知人から唐突にプロポーズされるところだったのだ。
「……きょ、う。しごと?」
話題を逸らそうと出たのは、彼女の服装のこと。
「ん? ああ、この服装じゃないと、ローガンが話すらしてくれないと思って」
「……」
「せっかく初めてディナーに誘ってくれたのに、無言じゃつまらないでしょう?」
目を細めた彼女は、静かに告げる。
「私ね、会話ができる人が好きなの。会話っていうのは、ちゃんと言葉と言葉を交わすってこと。言わずに察するじゃなくて、ちゃんと口にしてくれる人」
責めるでもなく、諭すでもなく――ただ事実を告げる声。
「そのカバンに入ってる物の意味も、今日誘ってくれた理由も、全部分かってる。分かったうえで来てるの」
視線が一瞬だけ鞄に落ちる。
彼女の長い指がワイングラスの脚をなぞる仕草が、妙にゆっくりに見えた。
その仕草一つ一つに、「知っている」という重みが宿っている。
「でもね、言葉にしてくれないなら、私は何も言わない。親が勝手に決めた約束なんて、ないも同然だから」
テーブルの上のキャンドルが揺れ、その影が彼女の横顔を淡く切り取る。
返す言葉が喉まで出かかって、ここでもまた固まる。
「美味しいね、このお肉。……仔馬なんだっけ?」
声色が柔らかく変わり、話題はするりと別の方向へ流れていった。
俺の胸の中にだけ、さっきの言葉の余韻が、重く沈んで残った。
テーブルの横、椅子の下で小さな袋が触れる。
中には作ったばかりの指輪。
夜が明ける前に渡すはずだったそれは、もう出番を失っていた。
――登場人物――
プロポーズする側:ローガン
プロポーズされる側:アメリカ