「生成AIで絵を描いた」「ChatGPTで小説を書いた」。いやそれ、あなたは描いて(書いて)ませんよ
たまに見かける言葉。
「生成AIで絵を描いた」
とか、
「ChatGPTで小説を書いた」
といった言葉。
え、それ──あなたは描いてませんよね?
正確に言えば、
「生成AIに絵を描かせました」
とか、
「ChatGPTに小説を書かせました」
が正しいんじゃない?
まるで自分が作り出した、みたいに「書いた」と語ってるけど、「だいたいこんな内容で」という指示を出しただけで、何かを成し遂げたように言うのは違うんじゃないかな。
これと同じかどうかは難しいところだけど、ChatGPTなどで小説の添削をさせて、内容を簡潔にしたり、読み手に受け入れられやすそうな文章に変える行為。これもなんだかなぁと思う。
とくにこの機能を使って他人の書いた文章に添削してドヤるなんて、子供じみた行為をする人って……
なんでもかんでもわかりやすさだけ、受け入れられやすさだけに重点を置くのは、よくない傾向だと思う。
「簡潔でわかりやすく」多くの出版物はそうしたことが推奨されるようになってきた。
けど本当に難しい内容、複雑な思考をテキスト化したものは、その文章もまた難しくなるものだし、少し古い本になると、そもそも文体からして難しいものだったりする。
つまり現代の簡単でわかりやすい文章にだけ慣れてしまうと、昔の論文だの専門書だのを忌避するようになる可能性がある。
昔の小説だってすごく難しい表現や言葉で書かれているものもあるし、そもそも現代では使われなくなった言葉なども使用されているからね。
単純な内容の、簡単な文章で説明されたものしか受け入れられない人と、複雑で難解な文章をさらっと読める人とでは何が違うか。
それは思考の形態が異なっている可能性がある、と思うんだよね。
思考のありようは、その人が読んできた本や、あるいは対話を重ねてきた人物の影響を色濃く受けるもの。
まあそうしたものに反発して、すべてを台無しにする人もいるけどね。
つまり、自分で思考する習慣を学び、身につけていないと、AIに洗脳されてしまう。みたいなことが起こるかもしれないってこと。
自分の気づかぬうちに考え方を歪められることって、人間相手でも起こりうることだからね。
「え、自分は大丈夫?
なら、気づいていたかい。
これが、AIによって書かれた文章だってことを」
…………嘘です。
ACジャパンのCMを元ネタにしただけです。
ぜんぶ自分ひとりでやりました(犯行自白ふうに)。
現に、AIの書いた小説のほうが読みやすくて、評価されてるでしょ?
個性の強い作品を嫌って、パクリ作品をありがたがる読者が増殖中……
もう答えは出ちゃったかな。