97 まだ貴方のスパイだと思ってるんですか?
その日イチヒは、アストライオスの個人船室に居た。
腕時計を見る。時刻は20:59を示していた。
理事長に指定されたPCを立ち上げる。
空中にホログラムのモニターが表示された。
手元の入力キーで、カタカタとパスワードを入れる。理事長から指示されたアプリを開き、また腕時計に視線を落とした。
カチ、と時が変わったのを見計らって、『定例報告』の項目をクリックする。
すると画面に読み込み画面が表示され、ほどなくして見覚えのある初老の男が現れた。
彼は今日も、薄気味の悪い微笑みを浮かべている。
最初はあんなに怖かったのに――今はただの、ムカつくジジイだ。
イチヒはそんな内心を努めて冷静に隠し、スパイの仮面を被る。
『ヴェラツカ中尉。――“例のAIデバイス”はどうかね?』
「……はい、問題なくズモルツァンド大尉に従っています。この拡張機能により、空母アストライオスに搭載されたロボットが、戦闘機への変形機能を獲得しました」
イチヒは既に決めておいた通りの答えを返す。
内容に嘘はない。AIデバイスではないが……クリスタルスカルによって、ガーディアンロボットたちが戦闘機へ変形したのは事実である。
理事長は、イチヒの言葉に満足そうに頷く。
彼は、イチヒの裏切りなど夢にも思ってないようだった。なぜなら、イチヒは『実にスパイらしく振舞っている』からだ。
リリーゴールドが宇宙軍本部に伝えた『クリスタルスカルは存在しなかった』という報告が公にされている以上、イチヒが『本部には伝えていないが、魔女の娘にのみ従う自立型AIデバイスを獲得した』と報告したのは理事長への忠誠に映るだろう。
――それが歪められたものだとは知らずに。
『ほう。悪くない知らせだ。
次のアストライオスの任務は、“ズァフ=アルク銀河”の掌握だ。どんな“犠牲”を出しても構わん、この銀河に眠る全てのオーパーツと、銀河の支配権を確保せよ』
“ズァフ=アルク銀河”――それは、ネフェルスの眠っていた惑星NA1025を抱く銀河。
宇宙軍が観測こそすれ、まだ支配できていないエリアだった。
「アイ・サー。承知いたしました。
……ひとつだけよろしいですか?」
『何かね?』
イチヒの言葉に、理事長の眉根のシワが深くなる。
イチヒは、リリーゴールドとあの日寮のロビーで見た中継を思い出していた。
宇宙軍の支配域拡大のための、『惑星安全安定化作戦』の最前線。耳障りだけ良い作戦だが、結局のところ宇宙軍の支配下に下らなかった惑星を、武力でねじ伏せる“侵略戦争”が行われている。
「ズァフ=アルク銀河の、ファラディーン連星域では……既に銀葬先鋒隊を筆頭として、宇宙軍が進攻中だと記憶しています。現地民との紛争の沈静化に動いていると。
理事長の仰る“犠牲”とは……どこまでを、さしておられるのですか?」
その言葉に、理事長の顔が嘲笑に歪んだ。
『――全てだ。
我々に必要なのは、オーパーツと銀河のみ。民も、兵士も“犠牲”となっても致し方あるまい』
イチヒはギュッと唇を噛んだ。
このひとは、人間を人間とも思っていない。誰が死んでも構わないとさえ思っている。
その為に――リリーに殺戮兵器になれ、と言っているんだ。
理事長は、そんなイチヒの様子をモニター越しに見て、呆れたようなため息をわざとらしくつく。
『ヴェラツカ中尉は、まだ人形になり切れていないようだね。だが、だからこそ。
『魔女の娘』は、お前に全幅の信頼を寄せ続けているとも言える。
ゆめゆめ忘れるな。お前の家族は私の手の内にある――地球も、行商人も、宇宙軍の支配下にあるということを』
理事長の瞳に、鋭い光が宿る。
確かに母の住む地球は宇宙軍の支配下の惑星だし、行商人に商業許可を出しているのも宇宙軍だ。
だが、イチヒたちにはマエステヴォーレがある。宇宙軍は誰も、鍛治神の正体に辿り着いていない。
イチヒはわざと、怯えた顔を作った。それから、迷った振りをして、ゆっくりと頷く。
「イエス・サー……心得、ました」
そこで、ホログラムのモニターはふっとかき消える。イチヒは大きく息を吐いて、目を閉じた。
《イチヒー!》
その時、ずっとイチヒの言いつけ通り黙っていた、リリーゴールドの脳内通信が再開する。
イチヒの隣の空間の空気がふわり、と揺らめいた。
おう、お疲れ。全部、聞こえてたよな?
イチヒは脳内で、そう返す。
《もっちろーん!! たぬき親父の対応おつかれさま!》
その瞬間空気が1点に収束し、何も無かった場所にリリーゴールドの肉体が構築されていく。
身体の中心に彼女の分子が集まっていき、透明だった身体に色が宿る。
指先から、髪のひとすじまでの再構築が終わると、リリーゴールドは、その金色の目を開けた。
イチヒは、彼女の金色の瞳を正面から見据える。
「そろそろ私たちを利用しようとしたこと、後悔して貰おうぜ」
未来を変えた記憶は消えても、リリーゴールドと一緒に宇宙軍を出し抜いた事実が、イチヒの強い自信になっていた。
ここからは、リリーを守るだけじゃない。
リリーと私の――反撃の時間だ。




