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93 『魔女の天文時計』はタイムマシンだった

 ネフェルスは、4次元の身体に戻って逃げはしなかった。彼女は、クリスタルスカルのまま、軍病院に留まることを選んだ。


《――この先どんな事が起きたとしても、この身体を捨てるよりはマシ。

 ウチの大事な――ちょー大事な思い出だし》


 今はもう、あの時代のネフェルスを知るものはいない。彼女の愛した水棲星人(エラフィリア)たちはもういない。

 ふと、サフィールの悲しげな笑顔が浮かんだ。

 あの時代でウチが愛した男に、似てる笑顔。

 でも、サフィールはウチの好きだったひとより、ちょっと臆病で、優しいんだけど。


《また会いたかったな……》


 無抵抗なネフェルスのクリスタルスカルに、幾つものチューブや電極が繋がれていく。

 もう、どうだって良かった。

 だって一度、願い通りこの世界で死んだのだから。

 ネフェルスは目を閉じて、医官たちの腕に身を委ねた。




 リリーゴールドとセトは、空中を泳ぐように移動していく。


《リリーゴールド。勝算はあるのか?》

《たぶん!!》


 セトの質問に曖昧に応えると、リリーゴールドは急降下する。ドームの天井をすり抜けて、内部に浸透していく。

 そこには――

 天井を貫くまでそびえる『魔女の天文時計』が鎮座していた。

 キラキラと、透明な歯車と黄金の歯車が輝きながら巡っている。


 その脇に、ぼんやりと天文時計を見上げるイチヒの姿を見つけた。

 リリーゴールドは、直ぐに脳波をイチヒにチューニングする。


《イチヒ!》


 うおっ! リリー! 急に消えたからどうしたのかと思った。まだ病院か?


《ううん。見えないかもしれないけど――今、天文時計の近くに浮いてるの……“4次元の身体”で》


 近くに浮いてる、というより巨大に膨張したリリーゴールドの概念はもはや天文時計に重なるようにすり抜けていた。

 本来の恒星の大きさに比べればまだ小さい方だが、すでにリリーゴールドの存在は10mほどに膨れ上がっている。

 真っ白に透き通る4次元の身体がまとう炎の光は、核融合をするようにチカチカと瞬いていた。


 イチヒは眩しそうに目を細める。

 見えていないはずなのに――視線がぶつかった気がした。 

 えへへ、見えてないはずなのにね。なんか、分かってるみたいにこっち見るんだなあ……


《この時計はね――過去から未来までの全ての宇宙の“座標”がある。だから――ほんの少し先の未来の座標を、書き換えれる。

 あたしたちが捕まらない、クリスタルスカルが軍に渡らない未来の座標に、上書きする!!》


 ――わかった。それで、私はどうしたらいい?

 イチヒの力強い脳波が、リリーゴールドに応えた。

 

 


 その脳波通信を盗み見ていたセトが、短く笑った。

 

《くくっ、そうか! リリーゴールドは3次元とのいわばハーフ。セトたちのように、媒介なしで時間干渉が出来ぬのだな》


 彼は純粋な4次元存在。

 4次元存在は、W軸――つまり時間空間座標を、粘土細工のようにこねくり回すことが出来る。

 時間を切り貼りして、特定の瞬間の事象を固定しておくことも、未来に進めることも、過去に戻すこともできた。そしてその未来座標はいくつもあり――それを自在に貼り替えることさえできる。

 それを――『時間干渉』と呼んでいた。

 彼らにとって、未来は未定ではなく、切り取って保存できるフィルムの一コマのようなものだった。

 

《“時間干渉”など、セトの最も嫌いな力だ。4次元の『不変』など……予定調和の瞬間になど、生きる意味を感じぬ……》


 だからこそ、セトは4次元を捨てて3次元で死ぬことを選んだ。

 巻き戻せない“瞬間”こそ生きていると感じられるから。この後悔すら、生きている意味となるのだから。


 だが、本当の意味での死……存在の消滅は、4次元存在である彼には振りかからない。

 結局、本当の永劫の死は手に入らなかった。


 それなのに、なぜかリリーゴールドとイチヒは眩しく感じるのだ。1番嫌いな力のはずなのに。

 彼女たちがふたりで手を取りあって、『未来』を変える。その瞬間をなぜか、見てみたいとすら思う。


 セトの見守る中で……リリーゴールドが目となり、イチヒが針となり、時計に触れる。


  

 そう、この天文時計の文字盤に針はない。3次元の物質で出来た文字盤には――必ず3次元物質の針が必要なのだ。


《そうか……! その媒介は、4次元の目と、3次元の針が無ければ起動できない!

 マリーゴールドは……3次元と、4次元の協力なしには扱えぬ形にこの時計をつくりあげたのだな……》


 魔女は、今この瞬間の座標すら、見通していたのだろうか? 遙か昔、1万年前にこの天文時計を3次元へ置いていった時に。

 いつか、娘とその3次元の親友がこの天文時計を必要とすると思って?



 その瞬間、世界は反転した。

 時が止まる。それはもちろん、4次元の彼だから見える事柄だった。

 まるで凍りついたように、空気すら動かない。

 


 天文時計の文字盤に、いくつもの未来の座標が浮かんでいく。


 軍病院のベッドに横たわる、リリーゴールドの姿。

 軍人たちにメスを握られ、リリーゴールドは手術室で眠っている瞬間。

 クリスタルスカルに迫る実験器具――


 幾つものパターンが浮かんでいく。その座標を、リリーゴールドは幾つもめくっては飛ばす。

 理想の未来の座標を、急いで探しているのだとすぐに分かった。


 セトも、固唾を飲んで見守る。

 いつの間にか、手に汗を握りしめていた。


 その時、彼女の指先がひとつの未来座標を捉える。




 それは――


 空母アストライオスのなかで、リリーゴールドとイチヒと、サフィール、それからクリスタルスカルのセトと、ネフェルスが笑っている瞬間。



 時間がきしみながら、超高速で動き始める。

 リリーゴールドの選んだ座標が、固定された。


 見えないながらに、リリーゴールドを信じて3次元から天文時計の針として文字盤に触れるイチヒの指先が、微かに1mmだけ動く。

 セトの身体が、急に間延びしたように引き伸ばされていく感覚がした。脳みそだけを取り出されて、はるか前方に引っ張り出されるような。


 その時世界が、未来へと跳ぶ――

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