92 『不変不死』を捨てても抱いていたかったもの
リリーゴールドは考えていた。
イチヒは3次元の存在で、4次元みたいにあたしたちの脳内クラウドにアクセス出来ない。だからあたしの視界の共有が出来ない。
「どうしよう……」
思わず呟きが零れ落ちていた。
それを聞き届けた医官が、冷たい声で答える。
「どうも出来ませんよ。貴方はこれから、軍病院の機密として、我々の実験に付き合ってもらうことになります。生きた『魔女』のデータが取れる日があるとは思っていませんでした」
リリーゴールドはちろ、と隣を見る。
君に言ったんじゃないんだけどな……
ふぅ、とため息をつく。
膝の上で両手をぐっと握る。
どうにかしなきゃ……! と考えた時だった。
子供の頃、ママと地球で幼いイチヒに出会った、あの日の光景がフラッシュバックする。
……そうだ。3次元の細胞を分解すれば、あたしは4次元の身体に戻れる。
あの子供の時、リリーゴールドはどんなに手を伸ばしても、どんなに声をかけてもイチヒに気付いて貰えなかった。
そう……4次元物質は、3次元の目に見えない!!
リリーゴールドは、決意した途端自分の体を構成していた3次元の物質を、解いた。
指先から、分子レベルにサラサラと解けていく。きっと3次元の目には、だんだん透明になるように見えているだろう。
分子レベルの粒子は目に見えないと聞いたから。
「なっ……?! 『魔法』か?!」
隣に立っていた医官が慌てて、こちらに手を伸ばしてくる。
「ざーんねん! 3次元の物質で出来てる腕じゃ……あたしは掴めないよー!」
だが、その声ももう彼の耳には届かない。
リリーゴールドは、ふわりと浮遊した。身にまとっていた3次元の細胞を脱ぎ捨てれば、もう『重力』にすら縛られない。
リリーゴールドの身体の輪郭が、段々と膨張していく。
彼女の心臓は、巨大恒星だった。それを、自分の重力で押し固めてなんとか300cm程に抑えていたのだ。
重力を受け取れる細胞が無くなった今、リリーゴールドの存在感は段々と膨張して、その輪郭は曖昧に解けていく。
恒星の心臓は4次元の細胞に包まれ、殆ど融合している。リリーゴールドがどんなに大きくなっても、3次元を押し潰すことは無い。ただすり抜けていく。
だが、その存在感が放つ電磁波だけは別だった。
突然、バチバチッと音がして部屋の照明が消える。部屋にあった医療機器のデータがどんどん狂いだし、画面はエラーを吐き続けた。
リリーゴールドは、眼下で騒ぐ軍病院を見下ろしながら天井をすり抜けどんどん上空へ上がっていく。
すると、脳内にセトの声が割り込んできた。
《ほぅ、本来の姿を取り戻したか! ならばセトも!!》
前方にシュンッとつむじ風が吹いた気がした。
次に気付いた時、目の前には真っ白な――筋骨隆々の男が立っていた。そしてリリーゴールドがじっと見つめるその顔は、長いピンと立った耳を持つ白馬のような、白犬のような顔をしていた。
《えっ……セト、そんな感じだったの……?》
《ふふん! 惚れ直したか! このセトの格好良さに!》
うーん、イチヒがいたらなんかいい感じに怒鳴ってくれそう。首から上はもふもふで可愛いけど……
如何せん半裸なのはいただけない。この感じで、肩の周り浮遊されてたのはちょっと……
彼はたてがみを三つ編みにして前に垂らし、キラキラとした黄金の装飾を施していた。そして揃いの黄金のネックレスを、首から肩に来るまで何重にもかけている。
だが、その下には何も着ていなかった。上半身は彼の筋肉におおわれているだけ。
《なんだか失礼なことを考えておるな?!》
そう言われて、リリーゴールドはとっさにもうひとつの疑問の方に意識を集中させる。
《頭もふもふなのに、骸骨は人類の形してたよね? なんで?!》
《ふふん。セトは3次元に来た時に、人の顔面を構築したのだ。3次元のセトのイケメンっぷりも見せたいであるな〜》
《今から3次元の原子は練れないの?》
さっきまでのセトは、クリスタルスカルの形を取っていた。
でも、彼があたしと同じなら好きな時に分子を解いて練りなおせるはず。
《セトは1度、3次元の世界で“死んで”いるのでな。
何度でも3次元の体を作れるのは、1度練った分子をもう一度集め直しているに過ぎん。3次元で作った身体が死ねば――2度と同じ身体は作れんのだよ。もう、さっきまでの分子は息をしていないのだからな。
まあ、擬似的な死だ》
リリーゴールドは言葉を失う。
じゃあ――もし、あたしがこの身体で死んだら、『あたし』はもう永遠にこの世界から消えちゃうんだ。
突然に迫る『死の概念』が、リリーゴールドの胸を重く埋めつくした。
一度しかない。替えはきかない。失敗もできない。
それは3次元では当たり前のことなのに、4次元に育ったリリーゴールドは、今初めて実感した。
次に違う分子であたしを作っても――今と同じあたしにはならない。そしたらもう、イチヒにも気付いて貰えないかもしれない。
それはもう、きっと『あたし』じゃない。
そう思ったところで、目の前のセトが優しい目をしているのに気が付いた。
そっか……セトも、“もう一度生まれ直したくない”理由があったから、前の姿の骸骨のまま過ごしてきたんだ。
《セトは……あの時、アストライオスと共に朽ち果てたかった。
だが、それを4次元エネルギーは許してはくれなかった。セトの願いに反して、4次元は『不変不死』であり続ける》
彼の静かな声が脳裏に染み込んでくる。
悲しみと寂しさが、ダイレクトに涙の波として脳裏に押し寄せてくる。
瞳を閉じれば、砲撃を受けるアストライオスと、逃げ惑う人々の残像が宿る。
赤い炎が風に舞っていた。炎の中で、幾つもの手が助けを求めて伸びていた。セトはそれらに手を伸ばそうとして――彼の『3次元の身体』もまた炎に飲まれていく。
そこで、その映像は暗転してぷつりと消えた。
これはきっと――セトの“5000年前の最期の記憶”だ。




