91 『魔女の天文時計』は宇宙軍設立のシンボル
たしか――『魔女の天文時計』は、この宇宙軍本部に展示されているはずだ。
イチヒは授業で習った姿を思い出す。
天文時計は、機密でもなんでもない。宇宙軍が発足したきっかけではあるが、今はただの『時計』として飾られているはず。
「……せっかく、本部へ来たんだ! ヴェラツカ少尉、エレイオス訓練兵、本部の展示を見て回るといい。ロビーには、あの『魔女の天文時計』もあるぞ!」
グラヴィアス大佐が、わざと明るい声で振舞っているのが分かった。
お通夜みたいな、この部屋の空気を和ませようとしてくれてるんだろう。
イチヒだけがリリーゴールドの声を聞いた。イチヒ以外の全員は、リリーゴールドを助けられない無力感に苛まれている。
だが。イチヒにだけ、未来に繋がる道筋が見えていた。
「そんな気分には……とてもなれないですよ」
サフィールの、静かに沈んた声がする。彼は、ネフェルスと大変仲が良かった。傍から見たイチヒにも彼らが特別な絆を紡いでいるのが分かるくらい。
ネフェルスは泣きながら、この部屋を出ていったのだ。サフィールはとても、展示など見る気分じゃないだろう。
「私は今だからこそ、今できることをします」
イチヒはそれだけ言うと、部屋を後にした。大佐たちを信頼していない訳ではない。
だが、自分ひとりで成し遂げないといけない気がした。だって、リリーが助けを求めてきたのは、私にだから。
ロビーに繋がる階段を降りていくと――巨大な金色の時計がすぐ視界に入った。
授業で見たイメージの数倍は大きい。
吹き抜けの天井を貫くように、その時計はそこに存在していた。
金色の砂の入っていない砂時計を中心に抱き、その周りを同じ金色の螺旋がぐるりと取り囲む。どこにも繋がらない歯車が、キラキラと輝いていた。
そして正面には、巨大な重なり合う円盤がついている。それは、歯車のようにも星座早見盤のようにも見える。
見えないが、イチヒは知っている。
この砂時計に、本当は砂が入っていること。
どこにも繋がらない歯車は、本当は見えない歯車と絡み合っていること。
そして――これが、『時計』ではないことを。
その瞬間、リリーゴールドの明るい声が脳内を占めた。
《脳内見るよ〜! イチヒ〜! そろそろ時計は見つかった?》
思わずくすっと笑ってしまう。
突然脳波通信で話しかけるなら、今から見るよって言え! そう言ったのはイチヒだった。
リリーゴールドはそれを律儀に守っている。
……ああ、あったよ。馬鹿みたいに誰もが見える場所にデカデカと飾ってやがる。
イチヒはあたりを見回した。もう、この時計は風景になってしまってるんだろう。
忙しそうに行き交う人々は、誰もこの時計を見てなんか居ない。イチヒだけが、この時計に足を止めていた。
《イチヒ……視界、ちょっと借りるねっ》
は?!
イチヒが抗議を考える間もなく、リリーゴールドはイチヒの視野をジャックしたらしい。即座に感嘆の声が聞こえてくる。
《おおっおおおお! すごーい、4次元物質全然見えなーい、こんな感じなんだあ》
いや感動してんな!!! てか、見えなくちゃダメだろ?!
お前今どこだよ? ここには出てこれそうなのか?
イチヒの質問に、リリーゴールドは唸るばかりだった。
《そうなんだけど……うーん、あたし入院させられるみたいなんだよねえ……焼き払ったら不味いよねえ……?》
いやまあ確かに焼き払うのは……ちょっと、いやかなり不味いかもな……どう足掻いても重罪人だし逮捕だよ。それこそ、理事長が何してくるかわかんねえよ。
《逮捕されても面会来てくれる?》
いやいくけど……ってそうじゃねえ!! 捕まる前提で話進めんな!! 天文時計で何とかするんだろ?!
《えへへ、そうだった! つい! うーん、イチヒあたしの脳内記憶はアクセス出来ないよねえ?》
できん。生まれてこの方、誰の頭ん中も覗けたことはねえよ。
出来たら苦労しないだろ――と思ったイチヒの視界に、チカチカッと虹色に輝く点滅が見えた、気がした。
は? なんだ、今の……
目を擦る。どんなに目を見開いても、もう光は見えない。だが、一瞬空っぽの砂時計の中が光った気がした。
《ねぇ、イチヒ! あるんだよ、砂も、歯車も! それから、その大きな円盤には、未来も過去も全ての座標があるの!》
リリーゴールドの声がする。でももう二度と、イチヒの視界は、4次元の光を捉えることは出来なかった。
その時、後ろから声をかけられる。
「イチヒ。……ここに居たんだ」
「サフィール……! お前は来ないかと思ってたよ」
「うん。――でもぼくも、イチヒみたいに強くならなきゃって思ったんだよ。こんな時なのに、イチヒは『今できることをします』って前を向いててさ」
サフィールが浮かべた笑顔は、傷付いた顔に見えた。でも、その深海のような瞳には強い光が宿る。
だが、イチヒもただ無闇に『前を向けた』訳じゃない。リリーゴールドが、ここまでイチヒを導いてきた。
「ぼくは……イチヒが憧れなんだ。イチヒみたいに、ぼくもまっすぐに“誰か”を守りたい」
そうして、彼はすっと上を見上げた。金色の天文時計を見つめる。
その横顔にはもう、彼らしい弱さは見当たらなかった。
“誰か”――きっと、ネフェルスの事だろうな。
イチヒはなんとなく、そう思った。




