51 その海獣は、人魚の姿をしていた
「エレイオス! あんたはまだ負けてない!! 決着をつけろ!!」
イチヒの強いシルバーの瞳に射抜かれる。
サフィールは、ぎゅっと手を握りしめた。そうだ、ぼくはまだ死んでいない!
その時、サフィールの脳内に幼い時聞いた父の声がよみがえった。
『サフィール、いいか。戦場では――最後まで立っていたやつが、勝者になる。だから、何度でも立ち上がれ。死ぬまでは、負けにはならない』
あの時は、ただ怒られていたのだと思っていた。
父様と稽古をするたびに、ぼくはいつも負けて泣きべそをかいていたから。
これくらいで諦めるな、立ち上がれと言われるたびに、もう稽古を終わりたいと思って辛かった。宇宙軍で大佐を務める父様に勝てるはずがないのに、と思っていた。
だけど。
今ならわかる。
サフィールはイチヒを見つめて、頷いた。
「ヴェラツカ! 戦闘はぼくに任せて、アイテム回収に行って! 水中戦なら、誰もぼくに勝てやしない!」
叫んでから、掴んでいたロープを離した。
渓谷の下の川の流れを見つめながら、渓谷へ飛び込む。段々と身体が落下する速度が速くなっていく。
だが、もう不思議と怖くなかった。
「言ったな?! 任せるぞ!」
イチヒの叫び声が上から降ってくる。
サフィールの身体は、そのまま川底へ吸い込まれていった。
澄んだ川の底までたどり着く。落ちた衝撃で、白い水の泡が身体を包んで水面まで戻っていった。
サフィールの身体に、冷たい水が染み込んでいく。地面の上を歩いていたときの、不快感や違和感全てから開放された。身体が水のように、軽い。
サフィールは人魚のように波の間を泳いでいく。
唇を薄く開き、エコロケーションを使った。
微細な超音波は水底の深さも、近くを泳ぐ魚も、左右に迫る渓谷の岩肌も、全ての場所を正確にサフィールに伝える。
その時、超音波の反射が異物を捉えた。
サフィールより先に川に落下していた、セルペンス中佐とバリアを持った女性隊員だった。
彼らは水面近くに浮かんでいる。
サフィールは音もなくすうっと泳いでいく――
セルペンスは水面に顔を出すと、傍らの部下に声をかける。
「クライ少尉、大丈夫ですか、怪我は?」
「イエス・サー。バリアのおかげで全くございません」
「それはよかった。しかし――困りましたね」
橋は崩落し、セルペンスとクライ少尉は川底に落ちてしまった。実際には、セルペンスはイチヒに落とされたのだが。
銀葬先鋒隊の現役隊員は、基本的に皆、無酸素状態で活動できる身体能力を持っている。しかしそれはあくまで短時間の話であり、永遠にということではない。
「川の水も思ったより冷たい。これでは体力を消耗します」
それになにより、水中ではサフィールに警戒しなくてはならない。彼が後から落下してきたのには気付いていた。
水棲星人と水中戦をするのは、素手でサメやシャチに挑むようなものだ。彼に遭遇する前にどこか、上にあがれる場所はないか――
そう考えた瞬間。
セルペンスの足首は何かに掴まれた。物凄い勢いで水底へと引きずり込まれる。
白い泡が浮かび、水中で下を見ると揺れる水の中にサフィールの姿があった。
ネイビーの緩やかにウェーブする髪が、水中で美しく揺らめく。
深海の瞳は、水面のように煌めいていた。
彼は、にっこりと微笑む。
美しく艶やかで――同時に感情の宿っていないアルカイックスマイル。
まるで感情ではなく条件反射のように、口元だけが笑みを刻んでいる。
だからそれが、余計に恐ろしかった。
……エレイオスは、こんな顔で笑う子だったでしょうか……?
セルペンスの記憶では、彼は人当たりこそよく上官の前ではにこやかな仮面を被っていたが、いつも張りつめた強ばった顔で訓練に臨む、そんな子だった。
サフィールは片手でセルペンスを、もう片手でクライ少尉の足首を掴んでいた。小柄なサフィールからとは思えないほど彼の力は強い。
もがいて反対の足で彼の腕を蹴るが、ビクともしない。
蹴られたサフィールは、それでもなお微笑んでいた。
薄らと開いた唇から、美しい歌のようなメロディが聞こえる。言葉のようで、言葉では無い音の羅列……。
だが、聞こえてはおかしい。
ありえない。水中では音は聞こえないはずなのに――
……いけない、この歌を聴いては!
セルペンスは、思わず耳を塞ぎたくなる衝動に駆られた。超音波のような美しいその音の旋律は、セルペンスの脳にじわりじわりと侵食してくる。
まるで、――人魚だ。
海で出会った美しい人魚は、船乗りを美しい声で惑わし、信じられない力で海へ引きずり込むという。
セルペンスも、子供の頃絵本で読んだことがある。
この人魚のモチーフは、惑星ネレイダに棲む水棲星人だと言われていた。
ネレイダに迷いこんだ宇宙船がその海に不時着し、出会ったのが人魚のように美しい水棲星人だったと――
セルペンスは、意識して口を開かないように努めていた。酸素が不要だとはいっても、水が喉に詰まれば窒息してしまうからだ。
どうにか隙を見て、サフィールから逃げ出そうと考えるがその手は離すつもりがないらしい。
どこまで連れていかれるのか。
――おかしいですね、この川……こんなに深かったでしょうか……?
セルペンスが違和感に気付いた時、そこがまるで海の深海のように暗いことに気がついた。
慌てて水中でもがく。
いつの間にかサフィールの手が離れていた。足元を見ても、サフィールはいない。
水中では、音が聞こえない。
セルペンスは首を左右に向けて辺りを見回す。隣のクライ少尉と顔を見合せて――
その時、2人の滲んだ視界にサフィールが現れた。泳ぐ姿は、イルカのようにしなやかだった。
彼は、目の前で旋回して――その尾びれのような足で思い切り2人を蹴りつけてくる。
防御姿勢をとろうにも、水中では浮力に邪魔されて上手く体制が保てない。それなのに、サフィールの蹴りは空気中よりもはるかに重く身体に衝撃を与えていた。
その時、背後からも蹴り飛ばされる。
2人は、蹴り飛ばされる度に水中を行ったり来たりする。身体中のあちこちが痛い。
水中の明瞭でない視界では、高速で泳ぐサフィールの姿を目で追うことすら出来ない。
――これは人魚なんて綺麗なものじゃない。
狩りだ。
獰猛で狡猾な海獣の狩り。
深海で出会ったら最後、獲物に食らいつくまでどこまでも追いかけてくる。
また思い切り蹴り飛ばされ、セルペンスは耐えきれずに口を開けてしまった。口から空気の泡がどんどんと上に逃げていく。口の中いっぱいに水が押し寄せてくる。
……まずい!
そう思った時、突然速い流れの波にさらわれた。
セルペンスはゴボゴボと口から泡を吐きながら、その流れに乗って流されていく。身体が何度も水底に打ち付けられる。
しかしやっとの思いで水面に顔を出せた。
頭上には空。
身体はまだ激しい波に攫われたままだ。
ふいに水の流れが変わる。
後ろへ、背中から強烈に引き込まれる。
もがいてももがいても、水が全身を攫っていく――それは、滝壺だった。
勢いよく滝に飲まれて、後ろ向きに大量の水ごと落下した。
セルペンスの手が、泡の中で宙を掴んだ。
だが、水は何も答えてくれない。




