15 底なし沼は『表面張力の魔法』で切り抜けます!
イチヒは遠くから聞こえる悲鳴と、大蛇ロボットが地面を這いずり回る音を意識して聞かないように務めた。
……さすがに、訓練で死にはしない……よな?
サルベル教官は鬼だが、いつも命を大事にしている人だった。きっと途中で止めに入るはずだ。
『……ペア、脱落! ……救護班、急行せよ!……』
強い雨音に混じって、ドローンからサルベル教官の声が聞こえる。
「うわ……」
イチヒの口から低いため息が零れ落ちた。
「あーあ、脱落しちゃったねえ」
リリーゴールドの呑気な声が返ってくる。
「脱落っていうか……ひどい怪我してないといいけどな……」
2人はぬかるむジャングルをゆっくり進んでいく。あちこちから、何らかの動物の声が響いてくる。
だが、イチヒは不思議と恐れていなかった。
「リリー、ここって本物の生き物いるのか?」
「んー……たぶん、いないかな?」
またリリーゴールドは、その金色の目を光らせて辺りを見回す。
きっとまた、原子を見てるんだろう。
――それも、『魔女の娘』の力なのか?
イチヒの脳内に理事長の『任務』のことがよぎった。でも、今はそんなことを考えている場合じゃない。
リリーとふたりで、試練を乗り越えるんだ――
「……! リリー」
「うん、次の障害スポットだね」
空中で大きく点滅する『!』のマークが現れ、2人は足を止めた。
だが、周りに先程のような敵の姿は見えない。ただ、ジャングルと沼地が広がっているだけだ。
しとしとと雨が弱いながらもずっと降り続いている。
『ズモルツァンド、ヴェラツカペア第2障害スポットに到達! 底なし沼を乗り越え、次のエリアに到達せよ!』
「底なし沼?! 私絶対無理じゃね?!」
イチヒは思わず叫んでいた。
イチヒの質量は、タングステンボディのため1000kg超である。
普段は重力軽減装置に頼って地面にめり込まないようにしているが、沼地ではまともにセンサーが働かないに違いない。
「イチヒ、その装置じゃどうにか出来ないの? 逆に浮くとか……」
リリーゴールドの問いに、イチヒはうなだれると首を振る。
「重力軽減装置は付けてるけど、これは私の本当の体重を軽くしてる訳じゃないんだ。重力加速度をゆっくりにしてるだけで……だから浮いたりはできないし、沈むのがゆっくりになるだけ……」
自分で説明してて絶望してきた。底なし沼にゆっくり沈んでくの、恐怖すぎるだろ?!
「えっじゃあイチヒ、もしかして泳げないの?!」
「いや泳げねえけど!! 今その話要らねえだろ!! 沼で泳ぐやつがいるか!!」
「えへへ、つい……」
リリーゴールドはこんな状況でもいつもと変わらず、子供みたいに照れ笑いしている。
「でも行くしかない……」
イチヒは、手元の制御端末をぎゅっと握った。そっと沼地に片足を乗せる。
ずぶ、と足が泥にめり込んでいく。
雨も降っているからか、泥は見た目よりもずっとゆるい。
「ああ〜やばい、どこまでもまじで沈みそう」
試しに端末で重力場スキャンを押してみるが、画面は『読み込み中……』からすぐには動かない。
旧型の安い重力軽減装置を使っている己を呪った。
手動スキャンには、どうしても1秒かかってしまう。片足から体が斜めに沼に沈んでいく。
「だよな!!」
イチヒは半ばやけになって叫んだ。
「イチヒ! こっち! 立ち位置変えて!」
ふと気づけば、リリーゴールドはイチヒの斜め前にいる。
イチヒは沈んでない方の足をリリーゴールドのいる場所へ踏み出す。
泥の表面がゼラチンみたいに張って、踏み抜かずにすむ。不思議に思いながらも、沈んでいく反対の足を引き抜きにかかった。
リリーゴールドはちょっとずつ進みながら振り返ってくる。
「つぎはここ!」
イチヒは引き抜いた足を、リリーゴールドの指定した場所に乗せる。
やっぱり泥がまるでスライムみたいにぷるんと反発してきて、足を乗せても沈みこまない。
「おぉ……! なんだこれ……!」
「イチヒ! 長くは持たないよー! あたしに着いてきて!」
「お、おう。わかった!」
イチヒはリリーゴールドの足の位置を慎重に見ながら、同じ歩幅で後ろを着いていくのに専念した。
リリーゴールドが一足先に草の生える地面の前まで到達する。
するとイチヒの方を振り向いた。
「あたしが足を離したら、表面張力が元に戻っちゃう! イチヒが先に行って!」
イチヒはリリーゴールドに差し出された腕をとると、2歩で地面の上に到着する。
久しぶりの硬い地面に安堵しながら、リリーゴールドに手を差し出した。
「リリー!」
「……うん!!」
ぎゅっとリリーゴールドの手を掴むと、その勢いのまま2人は地面に転がり込む。
自分の2倍ある大きな友人に潰されながら、イチヒは上体を起こした。
イチヒを先に通した分、効果が切れてしまったのか、リリーゴールドの片足は沼につっこんで泥だらけになっていた。
2人で地面の上に尻もちをつきながら、安堵のため息をつく。
「……はー、死ぬかと思った」
イチヒは今まで通ってきた底なし沼を見やる。底なし沼は、また元の波打つ泥地に戻っていた。
「難しかったあ……」
リリーゴールドの方も、余裕綽々とはいかないようで疲れきって肩を落としている。
「リリー、今のなんだったんだ?」
リリーゴールドは泥のついた足をぱたぱたと振りながら、笑った。
「んー、表面張力いじったのー」
「表面張力?」
「うん。水とか液体って、表面だけピンって膜が張ったみたいになることあるじゃん? あれを、ちょっとだけ強くしてた!」
イチヒは眉をひそめた。
「そんなことできんの?」
「ほんの一瞬だけならね! あたしの足が乗ってる間だけしか保てないから、イチヒがすぐ着いてきてくれて助かったぁ」
「魔法かよ……」
説明を聞いても、いまいち実感がわかないイチヒだった。
「違うよ、物理だよ? 表面張力って、分子同士が引き合う力のことだもん!」
そう言ってリリーゴールドは、はにかむ。
――いや、物理法則をいじれるのは十分魔法と呼んでいいだろ!!