11章-7.理由とは 2005.3.1
氷織の首は本当に細くて。
僕がこのまま手に力を込めれば簡単にへし折れるだろう。
確かに感じるヒオリの体温と脈。
そこに生きているのだと分かると同時に、簡単に殺してしまえるとも感じる。
ほんの少し手に力を入れるだけで、その脈を止められる。それ程儚くて尊い、僕の大切な人……。
「な……んで……」
僕はあまりにも弱々しく掠れた声しか出せなかった。精一杯絞り出した言葉はあまりにも情けなく、なんの意味も持たない。ただ狼狽えただけだった。
「百鬼に殺して欲しいの」
嫌だ。
そんな事無理だ。
「お願い……」
どんな願いだって叶えてあげたい。だが、これは違う。
彼女を殺す事、それは物理的には簡単だ。だが出来ない。彼女の唯一の望みすら叶えてやれない。
「出来ることなら何でもって、言ったのに……」
言った。確かに僕は言った。
「嘘つき」
僕は嘘つきだ。
「何か言ってよ」
何を言えばいいのか分からない。
「ねぇ!」
ヒオリはポロポロと涙を流しながら、酷く顔を歪めていた。
「ごめん……」
「謝って欲しくなんかない! 殺してよ!」
「ごめん。それは出来ない」
「何でっ!!」
死を願うほど、僕は彼女を苦しめ続けているのだろう。そんな彼女に僕は殺してやる事すらしてやれない。何も出来ない。
「殺して! ナキリの手で殺して!」
「出来ない……」
「これ以上、生きたくないの!」
「ごめん……」
「っ!!」
ヒオリは涙を流しながらも訴える。僕はただ謝ることしか出来ない。
「ナキリ君、すまない。あまり彼女を興奮させるのは……」
背後から晩翠家の男性に声を掛けられる。
僕はヒオリの首からそっと手を離して立ち上がると、数歩後退った。
僕はここにいてはダメだ。
彼女を苦しめることしか出来ない。
僕が離れた事で、彼女は絶望したような、そんな顔をしていた。希望を失ったと言わんばかりの表情に、僕の心臓はキュッと締め付けられた。
僕に会えば、僕に殺して貰えると、それを希望にしてたとでも言うのだろうか。
僕の手を頬に寄せていた時のあの穏やかな表情は、最期の別れを噛み締めていたとでもいうのか。
彼女が実際に何を考えていたのかは分からないが、その落胆した様子から、僕は何となくそう感じてしまった。
「ヒオリ。また来るよ」
「待って! 何で? なんで殺してくれないの? 理由を聞かせてよ……」
「理由ね……」
僕は心を落ち着ける。
僕がヒオリを殺せない理由は山ほどある。全てを語り尽くすなんて出来ないほどに。
だが、今ここでヒオリに伝えるべき事と伝え方は非常に限られている。僕は『最善』を考える。
ヒオリに死ぬ事を諦めさせなければならない。既にこんなにも我慢を強いて、辛い思いをさせている彼女に、更に負担をかける行為と言ってもいい。
それを叶えるためには、もう、彼女の中に残る僕への愛情に頼るしかない。本当に情けない。しかし、これしか方法は無いと思うのだ。死ぬ事を諦めるに足る理由に、僕がなれるのかどうか。それにかかっている。
「僕がヒオリを殺さない理由は簡単だよ。僕の我儘さ。僕はヒオリにはどうしても生きていて欲しいんだ」
「そんな……。嫌……」
「ごめんね」
ヒオリに生きて欲しいだなんて、本当に僕の為でしかない。僕の我儘だ。死にたがる彼女には残酷すぎる願いだ。
自分で言っていて本当に虫唾が走る。
僕は相変わらず身勝手で、救えない。
「何で……。生きていたって、こんな体じゃ何も出来ないんだよ? 目だって、もう焦点が定まらないの……。だから、もう狙撃もできない……。それに足もないから、戦うことすら出来ない……」
「確かにヒオリの戦闘能力は素晴らしかった。その強さを尊敬して頼りにしていたし、そんなヒオリから頼られる存在になれて誇らしかったよ」
「だったら――」
「関係ない」
ヒオリは酷く困惑したような顔で固まる。
「関係ないのさ。そんな事。確かにヒオリの戦闘能力は魅力の一つだけれど、それは沢山ある魅力のうちの一つと言うだけなんだから。僕はヒオリが好きなんだよ。戦闘能力の有無で変わることなんてない」
「でもっ! それならむしろ、私自身、前の私には戻れない……。ナキリが好きになってくれた私なんて、もう何処にも居ないの! もう、同じような思考は出来そうにないの……。いつだって薬がチラついて。辛いなら薬を飲んだらいいって……。選択肢の一つとして、ずっと薬が頭にあるの……」
それは後遺症だ。例え完全に体が回復しても、一生ヒオリを苦しめ続けるものだ。
彼女自身が言うように、前と同じように物事を考える事はできないのだろう。だから、以前の自分では無いと言う。
「それも関係ない」
「関係ないって……」
「ヒオリはヒオリだ。人間生きていれば考えが変わっていくなんて当然だよ。年齢や環境で如何様にも変わるものさ」
「そんな屁理屈……。私のはそれと一緒に出来るわけないでしょ! 私は歪んでるの。人としてダメな方向に曲がって戻れないの! 取り返しがつかないんだよ……」
ヒオリは両手で顔を覆って肩を震わせていた。
もう何もかも元には戻れないという現実に、彼女はどれ程苦しんだのだろうか。
「それでも僕は、ヒオリに生きて傍にいて欲しいんだ」
「勝手過ぎるっ!」
「うん。僕は本当に身勝手で何処までも救えないんだ……」
「……」
どうか、死ぬ事を諦めて欲しい。
僕の為に生きて欲しい。
僕の身勝手すぎる我儘に、一生付き合って欲しい。
「滅茶苦茶だよ……」
「うん。こんな滅茶苦茶な僕に、ヒオリは好かれてしまったんだから。諦めて欲しい」
「意味が……分からないよ……」
本当に僕は滅茶苦茶な事を言っているなと感じる。
「私……。何も出来ないのに……?」
「関係ないさ」
「ナキリの力にも、なれないのに……?」
「そんな事はない。僕は単純だから。ヒオリが傍にいてくれるだけで、何事も頑張れる」
「私、荷物にしかならないのに……?」
「僕が抱えられないとでも思う? 鍛えてるんだ。ヒオリを常に担いだっていい」
「何それ」
ヒオリはそこで小さく笑った。
久しぶりに見る彼女の呆れたような困ったような笑顔に、僕は緊張が解けたような気分だった。
「ヒオリ。何度でも言うよ。好きだ」
「……」
「僕の傍にずっと居て欲しい。この先も一緒に歩んでいきたい」
「……」
「お願いだ。身勝手でどうしようもない僕の我儘をきいて欲しい。僕はヒオリがいないと生きていけないから」
ヒオリは俯いた。けれど、小さく頷いてくれた。
「ヒオリ。好きだよ」
「もう、分かったから……。恥ずかしいからもう止めて……」
「え?」
「え? じゃないよ……。もう……」
ヒオリは再び両手で顔を覆って俯いてしまった。耳が赤くなっている。相変わらず反応が可愛い。
やはり、ヒオリはヒオリなのだ。変わってしまった部分はあるだろうけれど、変わらない部分だってあるのだと感じて心が温かくなった。
「可愛い」
「……」
ヒオリは指の隙間からこちらを睨んでいる。僕がいい加減にしないから、怒っているのだろう。そんな仕草も愛おしくて……。
「ナキリ君。そろそろ……」
晩翠家の男性に声をかけられる。あまりここに長居は出来ない。ヒオリの体は今もボロボロであり、安静にしていなければならない程だ。
僕が来たことで無理をさせて悪化させる訳にはいかない。
「ヒオリ。また来るよ」
「うん」
僕達はヒオリの病室から退出した。
***
その後は別室にて、晩翠家の男性から、ヒオリの状態を詳しく聞いた。今は強い痛み止めを飲んでいる状態らしい。
その特別な痛み止めは、多量に使用できない類のもので、今日僕と会う為に特別に使用したという話だった。
会話ができる程の痛み止めを使用していない時、ヒオリはずっと苦しんでいると聞いた。体を正常な状態へ戻すための手術自体は、様子を見て少しずつ進めており、順調に回復へは向かっているそうだ。ただし、痛みは続くだろうと。
また、薬の副作用にも苦しんでいると言う話だった。酷い吐き気で何も食べられない事も多いそうだ。
さらに、辛い記憶のフラッシュバックでパニックを起こすこともあるという。
先程見た彼女の姿は随分とよく見えたが、実際はまだまだ予断を許さない状況と言える。
「ナキリ君。すまなかった」
説明が終わったところで、晩翠家の男性は僕に深く頭を下げて謝罪をした。僕は謝られる理由が分からずに困惑する。
「彼女が君に会いたがる理由を、私は見抜く事が出来なかった。本当にすまない」
「いえ……それは……」
それは謝られる事じゃない。
まさか殺してくれと僕に願う為に会いたがったなんて、分かるわけが無い。
「君の活躍を聞く彼女は、ほんの少しだけ表情が柔らかくなる……。よく聞きたがっていたから。だから、会う事で気持ちが前向きになるかもしれないと……」
晩翠家の男性はヒオリの事を思いやってくれているのだろう。彼自身が信じる正義に従って、真摯に向き合っているのだと感じる。
故に、彼女の精神面まで見抜けなかった事とその結果に対して罪悪感を感じているのだと察した。
この社会で、これ程に誠実な人間は珍しいなと僕は感じる。そんな人間がヒオリを診てくれているのだから、僕も安心出来る。
「ヒオリは僕達の話を聞いて、何か言ってましたか?」
「ナキリ君達が無事である事に安堵していたし、活躍については凄い凄いと……」
ヒオリは僕達の噂について話す時に、泣いていた。もしかすると、何も出来なくなってしまった自分自身と比較して、辛くなってしまったのかもしれない。
「ヒオリの為に、医療だけでなく温かい配慮まで、本当にありがとうございます。引き続き、ヒオリ達をお願いします。貴方になら、安心して任せられます」
僕は改めて、晩翠家の男性に感謝を述べ頭を下げた。




