10章-8.絆とは 2004.12.29
朝起きて、身支度を整えた僕は真っ先に氷織の元へと向かう。これが最近の僕のルーティンだった。
相変わらずヒオリは医務室で多くの時間を眠り続けている。たまに起きていることもあるが、まともな会話は出来ないままだった。
意識がある間は、薬を欲しがり暴れるか、投薬の影響でぼーっとし、うわ言を言うかのどちらかの状態だった。
僕は眠っているヒオリの身体中に巻かれた包帯を丁寧に外し、清潔に保つよう消毒とふき取りをする。そして、晩翠家の男性が調合した特別な塗り薬をヒオリの体に塗っていく。
その薬は本当に凄かった。明らかに良くなっていくのが目視で分かる程。一般には出回らないような特別な薬なのだろうと思う。
その薬のおかげで、ヒオリの皮膚は少しずつ正常な部分を取り戻しつつあった。とはいえ、皮膚が変質している部分まではなかなか元には戻らない。
晩翠家の男性の指導の元、僕は薬を塗り分けて対応していた。
ヒオリの白くてしなやかで柔らかい手……。
それを思い出す度に僕は泣きたくなった。そこにあるのは赤くただれたり、変色したり、そしてボコボコと凹凸のある皮膚だ。
「明日。彼女を避難地域内の医療設備が整った場所へ運ぶよ。ようやく受け入れの準備が出来た。東鬼君と爛華さんも一緒に」
「はい。よろしくお願いします」
晩翠家の男性に僕は頭を下げた。
このシェルターでの治療には限界がある。だから、もっと高度な医療が受けられる安全な場所が整い次第移動するという事になっていた。
晩翠家の男性の知識と技術のおかげで、随分と良い対応をしてもらえた。だからこそ、彼等の怪我は酷くても悪化もしなかった。本当に感謝してもしきれない。
「ヒオリ……」
ヒオリとは暫くお別れだ。だが、僕は彼女に何て声をかければいいのかすら分からなかった。頑張ってなんて言えるはずがない。
もう既に、自分の我儘で彼女に苦痛を強いているのだから。
僕は、少しでも彼女の状態が良くなることを、ただただ祈った。
***
僕は共用室で気持ちを落ち着かせるために休んだ。幸い誰もいない。僕はソファーの中央に座った。
僕に与えられた小さな自室に1人でいたら、おかしくなってしまいそうで怖かったのだ。だから、人の気配がほんのりとある共用室を選んだ。
気を抜けば、一瞬で気が触れてしまいそうになる。だがそんな事は許されない。
僕にはやり抜かなければならないことが明確にあるのだから。
鬼人達を守りながらも共に戦い、この腐った世の中を少しでもマシな状態へ戻すのだ。力がある者が、それから逃げ出すなんて許されないと僕は考えている。周りも僕にそれを望んでいる。
僕の大事な人達が、人間らしく生きていける場所を僕は手に入れたい。現状の様に常に命を狙われ、理不尽に搾取され、窮屈な生活を強いられるなど、到底受け入れられない。
無秩序な暴力の世界を終わらせなければ。
僕は拳を強く握り、キツく目を瞑った。しっかりと自分が歩むべき道を見定めるのだ。何度も何度も言い聞かせて自分の芯をガッチリと固めなければならない。
生活費の捻出や、怪我人のケア等、僕自身には出来ない事を他者に頼っている状況なのだから、ちゃんと僕にしか出来ない事を行い続けなければならない。
だから――。
「ぎゅ」
「え?」
突然幼い子供の声が聞こえて、僕は驚いて顔を上げた。するとそこには3歳程度の鬼人の男の子が、僕に両手を広げて立っていた。
この子の接近に全く気が付かないほど僕は緊張し、集中していたようだ。
「ぎゅ!」
「えっと……」
僕は困惑する。どうすればいいだろうか。それに、この子はどうして1人でこんな所にいるのだろう。
と、そんな事を考えていると男の子は正面から僕に抱きついてきた。
「悲しい時、ぎゅ。する」
「え……」
「お兄ちゃん、辛そう」
「っ……」
「こうするといいの」
「そっか。ありがとね」
僕はその子を膝に乗せて、軽く抱きしめた。確かに鬼人の子供達はよく肩を寄せ合ったり、物理的にくっついている印象がある。
それに、グラもよく子供達の頭を撫でたり肩を抱いたりしている。彼らの文化なのかもしれない。
僕は男の子の頭を撫でた。温かさを感じると、不思議と緊張も解れていく。
こんな小さな子にまで心配をかけてしまうなんて情けない。僕は反省する。
この子に言われた通り、僕の心は酷く傷ついているのだろう。自分の傷に鈍感になる事は良いことでは無い。
見て見ぬふりをすれば、苦難の中を走り抜けられるかもしれない。だが、それは一時的な物だ。永遠に持続できる状態ではない事を知っている。
だから、僕は自分自身にもしっかりと目を向けた。
正直ボロボロだ。素直にそう思う。
精神は言うまでもなく、体だって万全の状態とは言い難い。
このままでは走り続けられないと薄々気が付いている。
「あれ……? 皆どうしたの?」
僕はふと共用室の入り口の所に複数の気配を感じてそちらへと声を掛ける。
扉からひょっこり顔が複数覗いている。燃えるようなオレンジ色の瞳達が僕を見ている。
僕が声を掛けた事で彼等はぞろぞろと共用室へと入って来た。しかし無言だ。無言でソファーに座る。
鬼兄弟に天鬼、そして斗鬼、鬼神野、鬼百合と覚醒組が勢ぞろいだ。
彼等は僕の両隣りと正面に座るが、皆何も言わない。しかも、何か少し不服そうな顔をしている。怒っているのだろうか。
「べつに……」
唯一の女の子であるキユリは口を尖らせてそんな事を言う。これは絶対に何かある時の言い方だ。
だが、こんな言い方をされてしまえば問うのも難しい。どうしたものか。
「ふむ……」
全く心当たりがないので僕は困り果てる。
と、そこへ救世主かのようなタイミングで、共用室の入り口にグラが現れた。
僕は助けを求める様にグラに視線を送る。
助けて欲しい。子供達のこの何とも言えない圧の理由が知りたいのだ。
しかしグラはフイッとそっぽを向いてしまった。
まさかグラまで怒っているのだろうか。
「グラ。助けて」
僕は素直にグラに助けを求める。
すると、グラはクスクスと笑いながら僕の元までやって来た。
「皆何も言ってくれないんだけれど」
「拗ねてるだけだよ」
「何でさ」
グラは僕が抱えていた男の子を指さす。
「どういう事?」
「その子に先を越されたから」
僕は首を傾げた。グラの答えを聞いてもよく分からない。
「皆百鬼を心配して、何かしたいと思っていたけど、どうすればいいのか分からなくてずっと悩んでた。鬼人同士ならハグしたり肩を寄せ合うんだけど、ナキリは鬼人じゃないから」
「そっか」
「迷ってるうちにその子に先越されて、皆ご立腹なだけ」
グラはクスクスと笑う。
僕はもう一度皆の顔を見る。すると、皆して恥ずかしそうにそっぽを向いてしまう。そんな様子が可愛らしいなと素直にそう思えた。
「ねぇ。良かったら僕にも鬼人同士のコミュニケーションのやり方、教えてくれる?」
僕は男の子を抱っこしたまま立ち上がる。そして皆の方へと手を広げた。すると、皆は僕の周りに集まってギュッとくっついてくる。そして、皆で肩を寄せ合った。
言葉は何も無い。しかし、そこには温もりが確かにあり、僕の心はじんわりと温められた。少しずつ傷が修復されていくような、そんな感覚を覚える。
そこでようやく僕は大事な事に気がついた。
きっと今まで、牛腸の店が落とされて以降、僕が戦い続ける事ができたのは、彼らの存在による物が大きかったのだと。彼等が弱い僕を、ずっと傍で支えてくれていたのだ。
いつの間にか、彼等の存在は、僕の中でこんなにも大切な存在となっていた。絶対に失いたくないと思える程、大きな存在だ。
そんな事にも気がつけなかっただなんて、僕は本当に愚かだ。彼等を置いて逝くだなんて、考える事すらあってはいけないじゃないか。
本当に情けない。僕は相変らず救えないなと思う。
「鬼人は感情を分け合って、支え合って生きてくから。辛さや痛みを分け合って皆で乗り越える。それに、楽しい事や嬉しい事も分け合って皆で喜ぶ。そうやって絆を深める」
グラの話す内容は、素敵だなと、僕は素直に感じた。
傷の舐め合いだとか、馴れ合いだなんて言う人もいるだろうけれど、共感の心を持って支え合えるという関係性は特別だ。馬鹿にしていいものじゃない。
「鬼人達は多分ずっとそうやって生きてきたんだと思う。俺はずっと1人だったけど、分かるから」
遺伝子に刻まれた本能的な行動なのかもしれない。物心がつく前に捨てられて1人で生きてきたグラが言うのだから、そういうものなのだろうなと思う。
僕は皆の頭を撫でる。随分と大きくなった。もう僕の肩くらいまで身長がある。それに、立派なプレイヤーだ。信頼出来る優秀な仲間だ。
僕が撫でると、皆嬉しそうにはにかんだ。その表情は子供の時から変わらない。とても安心する。
「あの、ナキリさん……。ヒオリさんの事、聞いたっす」
「え?」
赤鬼は言う。複雑そうな顔をしている。恐らく自分事のように捉えて心を痛めているのだろう。
「ノリさんに全部聞いたから知ってるっす」
青鬼も言う。
まさかノリさんが彼等に話しているとは思わなかった。
「皆ナキリが心配で落ち着かないから、皆でノリさんに聞きに行った。だから、大体知ってる」
「そっか……」
グラが補足してくれた。
また僕は周囲に沢山心配をかけてしまっていたようだ。
「ナキリはすぐ1人で背負おうとするし、誰にも何も話さないから。ヒオリの代わりになんてなれないのは分かってるけど、もっと俺達を頼って欲しい」
「いや、そんな、ヒオリの代わりなんて……。それに今も十分頼っていて――」
「戦力だけじゃなくて」
「……」
「俺達はナキリの幸せも願ってる」
「僕の……幸せね……」
幸せ……だなんて。僕はふわりと思い起こす。皆の笑顔があった時を。何気ない日常を。それがきっと僕にとっての幸せなのだろう。
僕の幸せには、いつも誰かの笑顔があるようだ。そんな事にも今更ながら気がつくなんて。
「この際だから、ナキリが考えてる事、やりたい事、全部話して。俺達も一緒に成し遂げたい」
グラは真っ直ぐに僕を見て伝えてくる。紫色の長い前髪の隙間から覗く、燃えるようなオレンジ色の瞳に見つめられると、僕は相変わらず何も言い訳できなくなる。
そして、僕はそんなグラの目が嫌いじゃない。
「分かった。話すよ。そして、どうか僕と一緒に戦って欲しい」
僕達はソファーに座り直した。
皆真剣に僕の言葉を待ってくれている。
僕は僕に付いてきてくれた彼等一人一人に感謝の気持ちを抱いた。そして、自分の考えと気持ちを整理した。
今になってやっと、僕の望む未来ははっきりと形を表した。それは、僕一人でできる話じゃない。僕一人では成し遂げられないものだった。
「僕がやりたい事は――」
こうして僕は、ようやく自分の考えや気持ちを彼等に話し共有したのだった。




