8章-5.均衡の崩壊とは 2002.12.2
2002年11月19日。その日、唐突に裏社会の均衡が崩れ去った。この裏社会を圧倒的な力で牛耳っていた『深淵の摩天楼』が何の前触れもなく解散したのだ。
原因も経緯も何もかもが謎のまま、頂点を失った裏社会は一気に混沌の闇へと堕ちていく。
まるで羅針盤が壊れて、向かうべき方向を見失った船のようだっだ。
各々が好き勝手に霧の中を進んで行った。唐突に大海原に放り出されてしまったかのような喪失感を抱え、裏社会は騒然となった。
その影響は当然、僕達にも迫っていた。少しずつ、しかし着実に。僕達の足元をじわりじわりと侵食して崩していくのだった。
***
深淵の摩天楼が解散して、約2週間が経った。僕達はこの環境の変化で潰されないために、我武者羅に足掻いていた。
「百鬼! お前の方の状況はどうなってる!?」
「物流が尽く死にました。情報も不確かなものが多く、質が落ちています。幸い付近の野良プレイヤー達は留まっていますが……」
「クソっ!」
店主は相当焦っているようだった。深淵の摩天楼が崩壊してからずっとこの調子だ。語気が荒くイライラしているのがよく分かる。気を抜く暇なんて無いのだと、そんな余裕は一切無いのだと、嫌でも伝わってくる。
当然ながら、僕も相当焦っている。このままでは僕達も、この崩壊に巻き込まれてしまう。せめて、自分達の周囲だけは何とかしたい。何か手立てがないかと、懸命に状況把握に努めている。
「雪子鬼と鬼楽は何か進展あった?」
「それが……。情報屋が次々に潰されているらしくて……。詳細な情報が手に入りにくい状況です。実際に調べてくれる人達が失踪……。恐らく殺されてしまっているものと考えられる状況で……」
セズキも苦しそうな顔でパソコンを操作していた。彼女は彼女独自の情報網を既に得ている。僕には全く読み解けない暗号を使って、特定の人物、または組織とやり取りをしているようなのだ。
その情報は非常に優秀で、今までに何度も助けられてきた。しかし、その優秀なツテの方も流石に影響を受けているらしい。
「僕の方もあまり良い状況じゃないですね。怪しい人間が増えてきて、深入り出来ない状況です」
「ふむ……」
キラクの方もやはり難しそうだ。彼は自ら足を運んで相手の懐に入り込んで情報を得るタイプだ。
かなり危険なやり方だが、その分得られる情報は価値がある。そんな彼が深入りできないと判断するくらいなのだから、相当危険な状況だと考えられる。
「その怪しい人間の様子を教えてくれる?」
「そうですね。恐らく元深淵の摩天楼の人間で、美味い話を持ちかけながら人を集めようとしてます。そうやって何人も連れていっています。勿論連れていかれた人は誰も帰ってきてません」
「人を集めてる……ね……」
何かが動き始めている。そんな気がする。だが、その正体が掴みきれずにもどかしさを感じる。
「割と誰でも良いみたいで、僕も何度も誘われるので、姿を変えたりしてのらりくらりと躱してる状況ですね」
「分かった。危なくなったら遠慮なく言って。もし護衛が必要ならプレイヤーも付けるから」
「はい。ありがとうございます」
確かな情報が得られない状況下で、物流も止まってしまった。武器等一般人社会で流通しない物は今後手に入りにくくなる。
弾切れになれば、間違いなく戦闘は苦しくなる。それに物資を狙った襲撃も今後予想される。
「ナキリ。引き続き調査だ。もし読み違えれば、俺たちは全滅だ。気を引き締めろ」
「分かりました」
店主と僕の判断によって、この店の運命は決まる。所属するプレイヤー達の運命も決まる。店がある地域にだって間違いなく影響する。それだけの責任が僕達にはある。
改めて、僕はもう1人ではないのだと実感する。自分が生き延びる事だけを考えていた頃とは違う。共に生きたい人達が増えすぎてしまった。彼等を置いて自分だけ生き延びようなんて思えなくなっていた。
彼等がいなければ生きていても仕方がないとさえ思える程大切な存在となっていた。本当に不思議だ。自分自身の変わりように驚きを隠せない。
だが、悪くない。この危機的状況下で、何も出来ない人間でなくて良かったと思う。
今この時、足掻く事が出来るだけの知識と力があって本当に良かった。
僕は改めて考える。今僕がやるべき事を。
『最善』とは一体何か。
『最善』を貫くために必要な事は何か。
失敗は許されない。僕は店主の指示通り気を引き締めた。
***
午後からは会合だ。深淵の摩天楼の崩壊後、初の会合になる。流石に、今までと同じではないだろう。
僕は身だしなみを整えた。
「お待たせ。行こうか」
僕の部屋のソファーセットで待機していたグラと天鬼に声をかける。
「ナキリ、行ってらっしゃい。気をつけてね」
「うん。行ってくる」
僕達を見送るために部屋から出てきた氷織は不安げだ。僕は彼女に近づいて抱きしめる。
「すぐ戻るよ」
可能な限り早く戻るつもりだ。これだけ周囲が不安定なのだから、この店の主戦力であるグラとアマキを連れて、長時間店を離れるのは良くないという理由もある。
僕は抱きしめたヒオリの額に軽くキスした。
「ひゃっ!?」
「ん?」
「な、ナキリ!?」
「どうしたの?」
彼女は目を見開いて口をパクパクさせている。顔も真っ赤だ。相変わらず反応がいちいち可愛い。好きだ。
「グラ君も、アマキ君もいるのにっ!」
「うん。そうだね」
「もーーーっ!!」
ヒオリは余程恥ずかしかったのか、僕の胸元に顔を埋めてしまった。僕はそんな彼女の後頭部を優しく撫でた。
「ヒオリ。行ってくる」
「うん」
僕は名残惜しさを感じながらも彼女を解放すると、グラとアマキを連れて部屋を後にした。
***
「こんにちは。ナキリ君。今日も頼むよ」
「はい。よろしくお願いします」
僕達は店の前に待機していた暁の車に乗り込んだ。
「さて。ナキリ君。早速だけれど……」
僕が座席に座り、シートベルトを締めた所で、アカツキが話し出す。その目つきは鋭い。
「深淵の摩天楼が崩壊して、今後僕達はどうすべきだと思う? ナキリ君自身の考えが聞きたい」
これはまた、難しい質問だ。牛腸の店としての考え方でなく、僕自身がどう考えているかを問われるとは。
「個々の店だけで耐えられるとは思えない……。僕はそう考えています。元深淵の摩天楼の人間達がそれぞれ私利私欲を満たそうと企んでいるようですから」
「そうだね。僕も耐えられるかは怪しいと思っているよ。現に小さい店は既に潰されているからね」
アカツキが言うように、小規模な仲介の店は既に何件か潰されている。そしてその地域は悪質な武力組織に乗っ取られているのだ。
乗っ取られた地域は、言うまでもなく悲惨だ。地獄と化していると聞いている。逃げ遅れた人間は奴隷のように扱われているとも聞いた。
裏社会の人間が生きられる場所はさほど多くない。また、簡単に生きる場所を変えられる訳では無い。
資金さえあれば何とかなるが、余裕がある人間はほとんど居ない。環境の変化をモロに受けてしまう。
別に彼らの事も救いたいとか、守りたいという思いは無い。情がある訳では無い。
だが、彼らの存在は僕達が生きる上では欠かせない存在でもある。
自分達が生きる地域をより良くするのは彼等だ。飲食を提供したり、娯楽を提供したり。彼等の多くは裏社会の人間だけが利用する施設の運営をしているわけだ。
野良プレイヤーのための宿屋等も、店とは切っても切れない関係である。僕達の店があることで、それなりに治安が安定し、また人間が集まることで、彼等も商売ができる。そういう関係性だ。
「可能ならば巻き込まれないようにしたいですが、周囲からじわじわと迫っているため、ここだけオアシスの様に残るなんて事は難しいかと……」
「物資の争奪目的の襲撃も増えるだろうね」
「はい」
ならばどうすればいいのか。
正直、明確な答えが出ていない。
不確定要素ばかりで決めきれない。
だが、悠長な事は言っていられないだろう。
そろそろ舵を切らなければ出遅れるだろうと何となく感じている。
「店間で協力体制を築いて要塞のように防御に徹する必要はありそうです。ですが、このまま待ち構える姿勢は危険な気がしています。落とされる前に攻める方が良いかもしれません。物資に限りがあるため、耐久は不利なので」
「成程ね。先に力を示して、攻撃の対象にされないように牽制するわけか。それもありだね」
アカツキは僕に聞くだけ聞いておいて、全く自身の腹の内は明かさないらしい。
全く……。相変わらず食えない人間だ。
「ところでナキリ君。もし君が弱小店の店主だったらどうする? 専属プレイヤーはAランク以下で、そのAランクプレイヤーも3人くらいしかいなかったら」
「え……」
僕は言葉に詰まった。
「想像してみなよ。そんな武力しか持ち合わせない状況下で、この崩壊の波に怯える状況を。どうかな?」
「……」
「今日の会合は荒れるよ。きっと」
アカツキはそう言って、いつものようにニコリと微笑んだ。




