8章-1.黒幕とは 2001.2.3
店のバックヤード奥、そこには応接室がある。普段使われることは殆どない小さな部屋だ。ただ、この部屋は特殊な造りをしていて、完全防音かつ電波を遮断する仕様だ。外部へ絶対に漏らすことのできない取引を行う際などに使われる部屋である。
たまに店主が客人と応接室へと入っていくのを見かけたことがある。応接室は、バックヤードの奥にあるのだから、僕が多くの時間を過ごしていた執務室を抜けていく事になる。そのせいもあってか、それなりに関わりのある人物以外は招かれない部屋という印象だ。
そんな部屋に、現在僕は店主と2人でいる。応接室内にある、4人掛けのソファーセットに、向かい合って座っていた。
「襲撃の黒幕が割れた」
店主は静かにそう言って、僕の方に資料を渡した。僕はそれを受け取り目を通す。
「深淵の摩天楼。最悪だな」
「……」
深淵の摩天楼。それは、この裏社会全てを牛耳る大規模組織を指す名称だ。誰もこの組織には逆らう事が出来ない。当然、牛腸や暁でさえもだ。彼等に逆らう事は死を意味する。圧倒的な武力と金を有した組織なのだ。何をしたって勝ち目はない。
そんな組織が何故今回の襲撃に関わっているのか。僕には全く想像がつかなかった。こんな小さな店を狙う意味が分からない。牛腸の店を潰したところで、何の得にもならないと思うのだ。それで得られる金銭等、彼等にとってみれば無いに等しいのだから。
「奴らが相手じゃ、報復はできない。気持ちは収まらないだろうが、諦めろ」
「分かりました」
やられたらやり返す事を基本とする裏社会であっても、相手が深淵の摩天楼では諦める他ない。
僕は気持ちを落ち着ける。何よりも大事なのは、僕が大切にしたいと思う者達の安全だ。これを脅かしてまでやる復讐など無い。
「狙いが不明だ。お前は何だと思う?」
店主に問われて僕は考える。深淵の摩天楼という組織自体良く分からないのだ。解像度が低すぎて有力な推測は出来そうにない。
「地方の武力組織が目障りだったから、僕達に当てて消そうとしたか……。または、僕達の店を乗っ取ってこの地域を深淵の摩天楼の縄張りにしたかったか……」
僕が今考えられるのはこれくらいだ。地方の武力組織については、深淵の摩天楼側も目障りに感じているだろう事は何となく想像できる。
というのも、深淵の摩天楼は秩序を作り上げる事に長けているという印象だ。圧倒的な武力と資金を持って、この裏社会に自分たちの都合の良い規律を浸透させていっているような印象なのだ。
そんな組織であれば、武力で好き放題やる非効率な集団は目障りになる。完全にコントロールするか、潰したいと考えるはずだ。
以前鬼人の子供3人と、鬼楽を買った施設の運営も深淵の摩天楼だ。その施設がある事で、道端で息絶える人間や物乞いが減り、治安が格段に良くなっている。つまりの暴力の社会に、それなりに秩序をもたらしているわけだ。
当然こうした活動を行っている組織なので、信者が増えており支持する者は年々増えている。一見するととても善良な組織の様に見えるのだから、当然の流れだろう。
だが、彼等がそんな善良な組織であるはずがない。実際の所、彼等が行うのは裏社会に住む人間からの安定した徴収だ。生かさず殺さず上手く人間を飼い、効率よく金を集めている。
縄張りとされた地域に住む人間達は、深淵の摩天楼の人間には一切逆らう事が出来ない。常に言いなりであり、全ての理不尽を飲み込まなければならない。確かに最低限の暮らしは出来るかもしれないが、一切の自由はない。それは本当に幸せなのだろうか。
人間らしく生きていくという行為からは程遠い生活になるだろう。家畜達が幸せなのかというのと似ている話だと思う。深く考える事をしなければ幸せかもしれない。
それに、悪い噂も聞く。危ない薬を売っているというのだ。考える力も彼等から奪っていくのだろうと想像できる。
やはり、深淵の摩天楼と関わる事は極力避けるべきだろう。
「両方だろうな。深淵の摩天楼にとって、この地域の店は最も面倒な相手とされているようだ。今までは敵対する気は無かったみたいだが、話が変わってきたのかもしれん」
「今までは敵対する気が無かった……?」
「そうだ。店がある地域は治安がある程度安定するから、奴らも手が出しにくかったんだろう。彼等のやり口は、救済を求める人間達に漬け込む形で縄張りを広げる。要は困っている人間がいないと成り立たないビジネスモデルだ」
つまり、漬け込む隙を与えれば、直ぐに乗っ取られる可能性があるという事だと感じた。例えば、僕達の店が力を失って、ゴロツキでこの地域が溢れたとする。そうなると、最も被害を被るのはこの地域に住む武力を持たない人間達だ。
彼等は一方的に搾取され食い潰されるだろう。誰からも守ってもらえずに野垂死ぬわけだ。そんな所へ、薬を売る人間が現れたらどうだろうか。きっと苦しみから解放されたくて薬を手にしてしまうのではないだろうか。
そうやって薬でおかしくなった人間が溢れ、暴れ始めたらどうなるか。さらに治安が悪化し、店などの小さな集団では対応できなくなる。そこで、深淵の摩天楼様の登場となるのだろう。救世主の様に現れて、有り余る武力と金で地域を制圧。
ボロボロに壊されて無秩序となった地域に、彼等の都合の良い秩序を新たに布くのだろう。その頃には抵抗勢力もないのだから簡単だろう。実に糞だ。
「どうやらな。規模がかなり大きくなっているらしい。深淵の摩天楼はいくつもの組織を吸収することで大きくなった組織だ。何故、反発もなく吸収出来ているのかは不明だが、もはや強烈な武力を有する組織以外は殆ど傘下に入ったと言ってもいいだろうな」
「殆ど……」
そんな事が本当に可能なのだろうか。方針が異なれば上手くいかないはずだ。吸収した組織が皆、大人しく言う事を聞くような組織だらけとも思えないのだが。
「この辺りで深淵の摩天楼に属さないのは、俺達の様な仲介の店や殺し屋の一族達、それと取るに足らない小さい組織か。そんなもんだろう」
深淵の摩天楼の魔の手は、もうすぐそこまで迫っているのではないだろうかと、僕は感じてゾッとした。
「目ぼしい組織は全て吸収し終えたからこそ、奴らはついに俺達の様な店にもちょっかいを掛け始めたと俺は見ている。今後は少しずつ侵食してくるかもしれない。目を光らせておけ」
「分かりました」
僕が答えると、店主は応接室を出て行った。
応接室に残された僕は、渡された資料に目を通していく。そこには深淵の摩天楼の情報と、地方の武力組織が縄張りにしていた地域の現在の様子が書かれていた。
これはちゃんと勉強しておけという店主からの指示だろう。もしくは、情報を与えてやるから下手な調査を行うなという圧かもしれない。
「ふむ……」
僕はじっくりと資料に目を通す。
深淵の摩天楼については、組織内部の事が記載されていた。完全にトップダウンの構造のようだ。莫大な資金を保有し、構成員に殺し屋も多い。トラやグラレベルの殺し屋がゴロゴロいるようだ。
こんな寄せ集め感のあるメンツで、よく統制が取れたものだと思う。一体てっぺんの玉座に座るのは誰なのか。その人物についての情報は一切ない。本当に謎だらけだ。
次に武力組織が縄張りにしていた地域の現在の情報に目を通す。その地域は、完全に深淵の摩天楼の縄張りにされたようだった。僕が目を逸らし見捨てた地域は、彼らによって完全に復活していた。
治安もよく、人間の営みが継続し循環する地域となっていた。
僕達には到底できないような事を簡単にやってのける様子を見せつけられて、僕としては面白くない。
彼等があの地域に一体どれだけの投資をしたのか分からない。相当な投資だ。どうやって回収するつもりなのかは全く分からない。僕には全く想像ができなかった。
「まさか一般人の社会からも毟り取る気じゃ……?」
ふと、そんな考えが浮かんだ。元々住んでいた地域の人間からこれ以上毟り取るのは無理だ。
そうなればまさか、あの地域一帯を利用して一般人を引き込むつもりか……?
普通に考えればそれはあり得ない答えなのだが、何となくそんな気がしてしまった。
というのも、一般人とは棲み分けるのが暗黙のルールだからだ。彼等一般人達とは関わってはいけない。そういう物として生きて来た。それは裏社会に住む人間ならば、子供でも良く知っている事である。そういう圧力を常に周囲から受けて育つので、当たり前の感覚になってはいたが……。
そもそもだ。何故一般人とは棲み分けるのか。良く考えてはこなかった。だが、僕が思うに、この現代の便利な世の中は一般人達が日々の労働で作り上げたものだからだろうと思う。
安全を約束され、安定した環境で、効率よく労働が出来ているから成り立つのだ。命の危機がすぐ近くに無いからこそ可能な事であると思うのだ。
僕達はそれらに乗っかっている。銀行の口座、携帯電話は勿論、電気や水道、家電に至るまで。重要なライフラインだ。信用が無ければ利用できない類の物は、割増料金が取られる事になるが、裏社会に住む僕達の元まで供給されるだけありがたい話である。
何となくではあるが、この社会の仕組みは崩してはいけないと僕は思うのだ。一般人達はこんな裏社会等知らずに、今後も安定して社会を維持し発展させ続けてもらわねば、僕達も困る事になる。
だからこそ、棲み分けるのだろうと僕は考えている。手を出してはいけない。絶対に。彼等一般人たちの社会を暴力の世界にしてはいけない。
でももし、深淵の摩天楼がそれを破ったらどうなるだろうか。人間の欲は尽きる事がない。可能性はゼロではないのではと思い始めてしまう。
僕の様な世間知らずがここで考えたところで答えなんて当然出ないのだが。それでも、あらゆる可能性を考えて警戒はすべきだろう。
僕は店主の指示通り、周辺地域や深淵の摩天楼の動向を今後もよく見ておこうと思うのだった。




