6章-6.トリガーとは 2000.12.10
僕がグラの横を通り過ぎて、医務室から出ようとした時だった。
突然、背後でどさりと重量物が床に落ちる音がした。
僕は慌てて振り返る。氷織が倒れたのではないかと恐ろしくなる。
しかし、予想に反して床に倒れていたのはヒオリではなく天鬼だった。
アマキはうつ伏せで体を丸めた状態で横たわっている。
返り血は浴びていたが、外傷は無かったはずだ。一体どうしたのだろうか。
グラが直ぐにアマキの元に駆け寄り様子を確認する。僕もアマキの元にしゃがみこみ、外傷がないかを確認した。
毒の攻撃を受けていて、後から症状が出るなど可能性はいくらでもある。突然倒れる程だ、見落せば命に関わる可能性が高い。
アマキは目をキツく瞑ってはいるが、気を失っているわけではなさそうだった。また、痛みに耐えるようにギュッと体を丸めていた。呼吸も荒く非常に苦しそうにしている。一体何が起きているのか分からない。
もしや、熱でもあったのだろうか。それを今までずっと我慢していて、限界が来て倒れてしまったということだろうか。
「苦しい……。熱いよ……」
真冬ではあるが、室内は適温に保たれている。暑いと感じるのはおかしい。何か体に異常が起きているという事だろう。
だが、医者ではない僕達では判断は厳しい。医務室に空きがあるかは分からないが、直ぐに移動させるべきだ。
それに今ならまだ、薬屋はここに残ってくれているはずだ。早く見せたほうが良い。
グラがアマキを抱き抱えるために、アマキの上体を起こす。
と、その時だった。アマキがうっすらと瞼を開けて僕たちを真っ直ぐに見た。
その瞬間、僕とグラは驚きのあまり固まった。
「アマキ……、その目……」
僕は慌ててアマキの頬に手を添えて、瞳を覗き込む。苦しそうにしている所、可哀想ではあるのだが、しっかり確認しなければならない。
「これは……」
僕はグラに視線を送る。すると、グラは深く頷いた。
「鬼人の覚醒」
アマキの黒かった瞳が、燃えるようなオレンジ色に変化していた。それはまさに、以前見せてもらったグラの瞳と同じ色だ。これはアマキが覚醒したとみて間違いない。
それにしても、何故今?
疑問は残るが、今は苦しむアマキをどうにかする方が先だ。
「百鬼。この目は、今は隠しておいた方が良い」
「分かった。とりあえず僕の部屋に移動しよう」
鬼人の覚醒は未知の部分が多い。グラの言う通り、今は隠すべきだ。人の出入りの多いこのフロアに置いておくのも良くないだろう。
僕はアマキの目に包帯を軽く巻いて瞳を隠す。そして、アマキを抱きかかえたグラと共に医務室を後にした。
***
「覚醒時の反応だと思う」
ソファーに寝かせたアマキは少しずつ落ち着きを取り戻しているようだった。全身を確認したが、傷一つなく毒による症状ではなさそうなので安心する。
「体が変わるから痛みがあるはず。待つしかない」
「分かった」
確かに、瞳の色が変わったり肌が黒くなったり、犬歯が伸びたりといった変化をするのだ、当然体に負担がかかるものだろう。
また、身体能力も上がると言っていたのだから、目に見えない部分も変化しているのかもしれない。
グラが言う通り、しばらく様子を見るしか無さそうだ。
「何故今アマキは覚醒したんだろうか……」
「多分ナキリの狂気にあてられた」
「ふむ……」
グラは即答だった。その様子から、多分とは言いつつも、確信しているのだろうと察する。
ただ、僕自身はその狂気に支配された時の記憶が殆ど無い。曖昧で夢を見ていたかのような感覚なのだ。グラと同じように確信するのは難しい。
「狂気にあてられるって言うのはどういう状態か、教えてくれる?」
僕がグラに尋ねると、グラは少し考えているようだった。きっと感覚的な事なのだろう。僕にも分かるよう言語化するために考えているように思う。
「ナキリは、凄く怒った時、とんでもない殺気を出す」
「うん」
「それこそ、SSランクのプレイヤー並。プレイヤーじゃないのにそんな殺気が出せるのは異常」
「そうなの?」
グラは頷く。とんでもない殺気と言われてもよく分からない。これもまたオーラと似て感覚的なものだろう。
グラの話の様子から、ランクが高いプレイヤーは強い殺気を放つのだろうなと推測できる。故に、プレイヤーでも何でもない、殆ど戦うことが出来ない僕が強い殺気を放つのはおかしい事なのだろう。
「それにナキリの殺気は何だか他の人間とは違う。ナキリが怒った時、俺も怒りの感情が芽生えたし、興奮するような感覚だったから。それが『狂気にあてられた』って感じかな」
「前に資料で読んだ、感情に共鳴するってやつ?」
「あ。うん。たぶんそれ」
少しずつ繋がってきたような気がする。グラから教えて貰える情報から、色々と推測ができそうだ。
恐らく、鬼人は『狂気持ち』の強い感情に影響を受ける。それは共感の類だ。僕は怒り狂っていない時でも、何かしら『狂気持ち』特有の雰囲気を発しているのだろう。
それ故、鬼人達から好感を持たれると考えられる。
そして鬼人の覚醒は、『狂気持ち』の強い感情によって引き起こされると見るのが良さそうだ。
グラが覚醒した時の話とも合致する。グラが覚醒した時、僕はとんでもない殺気を放っていたという話だった。つまり先程のように狂気に支配され怒り狂っていた状態だったと推測できる。
その『狂気持ち』が発する特有の殺気によって、グラは覚醒したのだろう。
これは、より一層気をつけなければならない。僕が正気を失って怒り狂えば、周囲にいる鬼人達を無理矢理覚醒させてしまうリスクがある訳だ。今や、グラとアマキ以外にも多くの鬼人が僕の近くにいる。
自分の感情をしっかりコントロール出来ない状態では、ここに居ることは許されないだろう。
一方で氷織の話によれば、僕はヒオリに関係すること以外ではこのように怒る事は無いという話だった。彼女が傷つくような事が無ければ僕は記憶を無くすほど怒り狂う事はないのだろう。
グラの話でも、いつもヒオリが泣きながら、怒り狂う僕を止めていたというのだからその話には信ぴょう性がある。
つまりだ。僕の『怒りのトリガー』は『ヒオリ』なのだろう。極論、彼女から距離を取ってしまえば恐らく怒り狂うような事は起きない。だが、それではダメだ。僕は彼女と一緒に居たい。どうにか良い方法はないだろうか。
僕が完全に怒りをコントロール出来るようになるか、もしくはヒオリが絶対に傷つけられない様な環境を作り上げるか。そのどちらかは必須だろう。どちらも難しいが、僕は成し遂げなければならない。自分の欲望のために。
「トラがナキリを連れて来た時、トラはナキリをプレイヤーに育てるつもりだったらしい」
「え?」
「トラなんて見るからに強そうな相手に、怖気づくことなく敵意を剥き出しに出来るのは才能だって言ってたはず」
それは相当命知らずな行為だ。今の僕では考えられない愚行である。たまたまトラはそれを面白がってくれたから良いものの、強者に喧嘩を売るような態度を示せばその場で殺されるのがこの社会では常識だ。たとえ子供だろうと許されはしないだろう。
確かにプレイヤーであれば、格上の相手に対しても怖気づくことなく行動できる度胸がある事は良い事かもしれない。トラはそんな点を見込んで僕を買ってこの店へ連れて来たのだと考えられる。
「それなら何で僕は雑用係になったんだろうか……」
「店長の意向……?」
グラもその辺りは分からないようだ。トラの提案を突っぱねる事が出来るのは店主しかいない。店主が僕をプレイヤーにはせずに雑用係として育てると決めたと考えられる。何かしら意図があったと推測できる。
店主に問えば答えてもらえるだろうか。僕が知り理解することで、結果店主のメリットに繋がるのであれば教えてもらえそうではあるが……。
「ナキリさん」
アマキの声が聞こえて、僕は思考を中断した。そして、アマキを寝かせているソファーの近くで膝をついた。
「もう大丈夫だと思う」
アマキはゆっくりと上半身を起こし、僕に向かってへな~っといつものように笑った。その様子に僕は安堵する。
笑った時に見えた犬歯は少し伸びていた。そして、皮膚の一部が黒く変色し始めていた。さらに時間が経過すれば、きっとグラのような見た目になるのだろうなと思う。
「僕がずっと探してたもの……。ナキリさんだったんだね。やっと見つけた」
「え?」
その瞬間、アマキは僕の胸に飛び込んできた。そしてきつく抱き着いてきた。本当に嬉しそうに微笑んでいる。
訳が分からなかったが、そんな嬉しそうなアマキを突き放す気にはなれない。何だかアマキの事は、可愛い弟の様な存在だと感じる。ふわふわの茶色の髪と緩い雰囲気もあってか、じゃれつく小型犬のようにも思えてしまった。
僕はそんなアマキの後頭部を、そっと撫でた。
「俺達はいつからか分からないけど、魂の一部が欠けたような喪失感を抱いて生きている。ナキリに会った事でそれが埋まった」
「そっか」
「アマキもそれを今感じたんだと思う」
「うん」
アマキが寝ていたソファーにグラが座り、グラもアマキの頭を優しく撫でていた。
『鬼人』や『狂気持ち』については、未だに分からない部分は多く不安は残る。だが、それらによってもたらされたこの温かい繋がりは、決して悪い物ではないなと、僕はそう思うのだった。




