6章-5.狂気持ちとは 2000.12.10
僕を支配した、あのどす黒くおぞましい物の正体は、恐らく『怒り』だった。ただ、その『怒り』は日頃感じる物とは圧倒的に異なるものだった。だが、本質は『怒り』。僕はそう認知した。
そしてその『怒り』によって生じた『破壊衝動』。あれはなんだったんだと、自分でも理解出来ないでいる。
「百鬼は覚えてないんでしょ?」
僕は氷織の問いかけに頷いた。やはり、先程のような状態は初めてでは無いし、ヒオリは誰よりも――当人である僕以上にその事について知っているのだろうと確信した。
「店長に口止めされてたから……。ナキリ本人が気がつくまでは黙っているようにって」
「ヒオリが意地悪して今まで言わなかったなんて思っていないさ」
「うん……」
ヒオリは黙っていた事を気に病んでいるのだろうか。
あの店主が、僕には伝えない方が良いと判断した事だ。確かに、自覚のないままの状態では、僕はこの現実を一切受け入れなかっただろうと思う。
だから、店主とヒオリが、僕には教えないという判断をした事は妥当だと僕は感じている。
「ナキリがさっきみたいに怒るのはね、過去にも何回かあったの。それは決まって私のためだった。私が理不尽な目にあったり、酷いことをされたり怪我をしたり。それを見た時にナキリはさっきみたいに怒っていたの」
「ヒオリのため……?」
「うん。ナキリは自分のためには怒らないでしょ?」
彼女は苦笑している。
確かに、僕は自分が理不尽な目に遭おうとも、これ程の怒りは湧いてこない。諦めがついているのか、もしくは自分自身にあまり興味を持てていなかったように思う。
だが、ヒオリが酷い目にあうのは嫌だとハッキリと感じる。
「店長が言うにはね、ナキリは『狂気持ち』なんだって」
「狂気……?」
「うん。世の中には稀にそうした精神的な特徴を持った人間が産まれてくるらしいの。でも、大抵の場合は長く生きられない。だからあまり認知されていないんだって」
彼女の言う『狂気持ち』とは何だろか。初めて聞く言葉だ。精神的な特徴を示す言葉であるという『狂気持ち』。
ただ、長くは生きられないという話についてはよく分からない。あまりイメージができなかった。
「『狂気持ち』って言うのはね、生まれながらに攻撃性が異常に高い人間なんだって。でもね、その攻撃性は自分にも向いてしまう。だから、幼いうちに殆どの子が自殺しちゃうんだって。それで、長く生きている『狂気持ち』の人間は稀なんだって。そう、店長は言ってたよ」
その話が事実ならば、どうして僕は生きているのだろうか。攻撃性が自分自身へ向かずに済んだ理由があるはずだ。
また、先程感じた、得体の知れない『破壊衝動』。それが『狂気』という物なのだろうか。
やはりまだ、これだけでは分からない事が多すぎる。考えれば考える程、自分自身が信用出来なくなり恐怖が押し寄せて来る。
だが、今は目を背けずに向き合いたいと思う。ヒオリがこんなボロボロの状態にも関わらず、必死になって僕を正気に戻してくれたのだ。気づくきっかけを作ってくれたのだ。逃げたくない。
「ヒオリはいつもこうして僕を止めてくれたの?」
「うん。でも私だけじゃ止められなくて。トラさんかグラ君がナキリを気絶させて抑えてたの」
「そっか……」
気絶させなければ止まらない程、僕は正気を失い続けていたのだろう。狂気と言うのだから、正気の状態とは対極にあるようなものなのだと推測できる。
記憶が無いというのも、この『狂気』に支配された事による弊害なのかもしれない。理屈は分からない。だが、結果からはそう推測できる。
「ヒオリはこんな僕を……、怖いとは思わなかったの?」
「……。怖……かっ……た……」
ヒオリは俯き、ぽつりと言った。
その答えは予想通りだったにも関わらず、僕は心臓を太いナイフでグサリと突き刺されたかのような痛みを感じた。
当然の答えなのに、傷ついている自分がいる。それが酷く情けなくて。自身が本当に嫌いになる。
こんな得体の知れない人間なんて、怖いに決まっているじゃないか。僕は彼女に、一体何を期待しているのか。情けなさすぎて反吐が出る。
怒りによって正気を失い、その時の記憶も無くす人間なんて、まるで化け物だ。こんな化け物が、他者から気遣われようなんて、おこがましいにも程がある。
ヒオリはプレイヤーだから、いざとなれば僕を殺して自分の身を守れるだろうが、それでも体格差を考えれば怖くないわけが無いだろう。
ずっと彼女に怖い思いをさせてしまっていた事を申し訳なく思う。
こんな精神疾患を持った人間は早急にヒオリから離れるべきだ。次もまた同じように正気に戻れる保証なんてない。
いつか彼女を傷つけてしまう可能性だってある。危険だ。
「怖かったよ……。凄く……。ナキリが戻ってきてくれなかったらって!」
「え……?」
想定外のヒオリの言葉に、僕は声を漏らす。
「私にだけはいつも優しい顔で接してくれるナキリがいなくなっちゃうんじゃないかって!」
「っ!」
「いなくならないで。ナキリ。ずっと私の傍にいて欲しい。お願い」
「……」
僕は答えられない。傍にいたら傷つけてしまう可能性が大いにある状況で、ずっと彼女の傍にいるなんて約束できない。
「ヒオリはどうして僕に……? こんな精神疾患のある人間に……?」
問いかける僕の声は酷く震えていた。
僕は途端に分からなくなってしまったのだった。
何故ヒオリが僕の事を好いていてくれるのか。大事な人のように接してくれるのか。
幼い頃からここで共に育ち、仲良く過ごしてきた。兄の様に慕ってくれていたからその延長だと考えていた。
しかしながら、僕は欠陥人間だ。そんな欠点のある人間を好きになれるとは思えない。
正直、キレたら手に負えない様な人間、さらに記憶もなくすような人間は危険だ。距離を置こうとするのが普通の反応ではないだろうか。関わり合いたくないと感じるのが通常ではないだろうか。
「精神疾患なんて言わないで! ナキリはナキリなの。もし私に致命的な精神疾患が発覚したとして、ナキリは私の事を嫌いになるの?」
僕はヒオリの言葉に気付かされる。
たとえヒオリに精神疾患があったとしても、僕は変わらず彼女を愛し続けるだろう。そんなことでは揺るがないと断言出来る。
ヒオリも同じように僕の事を想っていると言いたいのだろう。
「いつだって私にだけ甘くて、ずっと私の心配ばかりしていて、いつも私を気にかけてくれて、何処までも過保護で……。私が店長や他のプレイヤー達に言い負かされそうなときには絶対に助けてくれるし。何でそんなことまで知ってるのってちょっと怖い時もあるけど……。でも、本当にいつも私の事を見ていてくれて、大事にしてくれるナキリの事、好きじゃない訳がないでしょ!」
ヒオリは僕の目を真っ直ぐに見てはっきりと言う。
「『狂気持ち』が何なの!? それくらいなんてことない! 何度だって私が優しいナキリを取り戻すから良いの! それに、そんなナキリの事を嫌だなんて思った事ない!」
僕はヒオリの勢いに押される。
「だから、ずっと傍にいて! いつもみたいに私の我儘聞いてよ!」
最後は泣きそうな声だった。ヒオリの訴えに僕の心は締め付けられる。
「お願い……。お願いだからいなくならないで……。私の前から消えようとしないで……」
「……」
ヒオリは僕が距離を置こうとしている事を悟ってしまったのだろう。
彼女が懇願する様子は見ていて辛くなる。その必死さを目の当たりにして決意が揺らぎそうになる。
「ナキリは……、私の傍にはいたくないの? 嫌なの?」
嫌なわけがない。出来る事ならずっと傍にいたい。
だが、それでも自分で自分を制御できない状態のまま、ヒオリの近くにいるわけにはいかない。
「嫌じゃないさ。僕もヒオリの傍にいたい。だけど、ヒオリを傷つけてしまうかもしれない状態で傍にいる事はできない……」
「だからそれは私がまたさっきみたいに止めるから!」
僕は首を横に振った。
いくらヒオリの願いでも、やはりそれは叶えてあげる事はできない。
この精神疾患を何とかしなければヒオリと一緒にいる事はできない。
そう思う一方で、同時に僕はヒオリを手放すつもりなど一切無かった。
他者に取られる等あり得ない。
僕は本当に呆れる程、身勝手でどうしようもない人間だ。
「ごめん」
僕は立ち上がる。
「ナキリ……。行かないでよ……」
今の僕には、彼女の涙を拭う資格すらない。
勝手な僕を許して欲しい。
僕はヒオリに背を向けた。




