4章-2.暗黙のルールとは 2000.10.2
「せっかくの高ランクプレイヤーの死体だ。新鮮なうちに解体してしまおうかな」
「僕がやる!」
天鬼が目をキラキラと輝かせて名乗りを上げる。そんなに解体が好きなのだろうか。分からないが熱心なのは良い事だ。僕は近くに寄って来たアマキのふわふわの茶色い髪を、そっと撫でた。するとアマキは嬉しそうにはにかんだ。
静かに血だまりを広げていく酔っ払い男の死体のすぐ隣だと言うのに。アマキは相変わらず緩い空気を纏いながらへな~っと楽しそうに笑っている。本当に現実離れした光景だと感じてしまう。
当たり前の話だが、死体は鮮度が良い方が高く売れる。さっさとバックヤードに運び解体、適切な処理と保存。そして店の掃除をしなければならない。直ぐに取り掛からなければならない業務が沢山出来てしまった。手が空いている雑用係達を呼ぶべきか。
と、そんな事を思っていると、ポンと肩に手を置かれた。振り返るとトラだった。
「百鬼。後の事は良いから。お前は氷織を連れて今日は戻れ。片付け類は俺達でやっておくから」
トラはそう言って気遣ってくれる。
だが、そうは言ってもだ。店主は今席を外している状況で、僕までいなくなるのはどうかと思う。
「牛腸は電話しているだけだから、すぐ戻る。その怪我じゃなんもできないだろ」
確かにそれはそうだ。僕は頷いた。まずはこの左腕を何とかしなければならない。そして、ヒオリもこんな場からは早く退場させたいと思う。
「分かりました。すみませんが、後の事はよろしくお願いします」
僕はトラにその場を任せる事とした。
「ヒオリ。怪我はない? 蹴られたところとか……」
「私は大丈夫。大丈夫だけど……」
ヒオリは今にも泣き出しそうな顔で僕を見上げていた。
「ヒオリが無事でよかった」
僕は右手を彼女に差し伸べた。そして引き上げるようにして彼女を立たせた。彼女は俯いている。泣いてしまっているのかもしれない。僕は彼女の肩を優しく抱いて、店の出口へと向かった。
***
僕の部屋のソファーに座り、僕はヒオリに左手の怪我の手当をしてもらっていた。彼女は終始無言で淡々と作業をしている。
ただ、今にも泣き出してしまいそうな表情だった。目に涙が溢れそうになると、雑に拭っている。そのせいで目の周りが赤くなってしまっていた。
「私がナキリを守らなきゃいけなかったのに……」
ヒオリは涙とともにそう言葉を零していく。店のプレイヤーとして、店と従業員を守るのは仕事のうちだ。そこに責任を感じているのだろう。
「それなのに、私のせいで……」
「あれは事故だよ。ヒオリは何も悪くなかった」
「でも、私があの男より強ければ、1人でも解決できたし、ナキリが怪我することも無かった」
確かにそれはそうだが。
僕はなんと言葉を返せばいいのか分からず視線を落とした。
僕が沈黙しているうちに、あっという間に左腕の手当は完了した。ヒオリが丁寧に包帯まで巻いてくれていた。
派手に血液が流れていたが、適切に処置すれば問題なさそうだった。障害が残ることもなさそうで安心する。
「決めた……」
「ん?」
「私、もっと強くなる!」
ヒオリは充分強い。多くのプレイヤーはBランク以下だ。ヒオリも現在Bランクだが、実力はAランク以上と言われている。
狙撃の腕のみで言えば、Sランクの仕事もこなせるほどの実力だ。接近戦こそ得意ではないが、狙撃手なのだから問題は無い。そう思うのだが……。
それに、Aランクよりも上に行くことは、本当に困難な道のりだ。それこそ特別な存在しか到達できない領域と言われている。生まれながらに身体的アドバンテージがなければ厳しいとされる。
ヒオリの武器は目だ。鷹の目とも言われる程優れた視力だ。その目があるからこそ、狙撃手として優秀な成績を修めているのだ。
勿論、体術ができるに越したことはない。狙撃中に狙われる可能性だってあるのだから。だが、積極的に近接戦を行う必要はないと僕は思うのだ。
「ヒオリ。よく聞いて」
「え?」
僕はヒオリの頬に右手を添え、強制的にヒオリをこちらに向かせた。目が真っ赤だ。
僕を捉えた彼女の瞳は再び潤み始め、そしてポロリと涙が落ちた。僕はその涙を優しく拭った。
「あれはね、パフォーマンスでもあったんだ。だからヒオリは何も悪くない」
「パフォーマンスってどういう事?」
「僕はわざと男の攻撃を受けた、という事だよ」
「何でそんな事っ!!」
ヒオリは再び顔をくしゃくしゃにして、ぽろぽろと涙を流す。優しくて真っ直ぐな彼女には、僕の行いは理解に苦しむことだろうとは思う。
「口実が欲しかったんだ」
「口実ってなんの?」
「あの男を殺すための口実だよ」
「……」
そこまで言うとようやくヒオリも理解できたようだった。
あの時僕には、口実がどうしても必要だった。少し店で粗相をしたからと言ってSランクの野良のプレイヤーをいきなり殺すことはできない。
それこそ、『副店長に攻撃をして怪我を負わせる程の事』でなければ、妥当とは言えなかった。
この匙加減はこの社会の『暗黙のルール』のようなものだ。どの程度の事が起きた時、命のやり取りに発展するのか。それは長年この社会に生きていると徐々に分かってくる類のものだ。
もし、正当な理由と認められるものがないような状況で殺戮があった場合、それこそ僕達の方が悪いことになり悪評が広まる事になる。故に口実は大切なのだ。
「あの場には、トラさんもグラもいた。だからもし僕が致命傷を負うような攻撃を受けそうになれば二人が絶対に動く。でも、動かなかったんだからそういう事だよ。あの二人も僕がやろうとしている事を理解していたんだろうね」
「でも、だからって……。そんな危険な事しないでよ……。ナキリが怪我するなんて嫌なのに……」
「それはごめん」
ヒオリは肩を震わせて本格的に泣き始めてしまった。僕は、ヒオリを抱き寄せ背中をさする。彼女を泣かせたのは僕だ。本当に僕は酷い人間だと思う。
「でもね。ヒオリ。僕はとても怒っていたんだよ」
「え?」
「僕の目の前で、ヒオリが男の下敷きにされただけでも許せないのに、その上蹴られているところを見せられたんだから。その時点で僕はあの酔っ払い男をこの店から生きて帰す気なんて一切無かったのさ」
「……」
ヒオリは驚き固まってしまったようだった。僕に恐怖しているのかもしれない。ヒオリとは同じ環境で育ってはきたが、僕はあまりにもこの社会に染まってしまっている。
ヒオリのように、いつも正しく真っ直ぐに生きるなんてことはできやしない。
彼女は今まで僕の事をどんなふうに見ていたのだろうか。兄の様に甘える事が出来る存在として見てくれていたのだろうか。
だが、これが僕の本質なのだ。酷く歪んで汚い人間だ。自分の目的や欲望のために、効率だけを考えて、他者の命を平気で刈り取るような人間なのだ。幻滅されてしまっただろうと思う。
こんなどうしようもない人間である僕が、ヒオリに触れている事すらあってはいけない事の様に感じてしまう。
だが、僕はもう……。ヒオリを手放す事なんてできない。不可能だ。本当に僕は身勝手な人間だ。どうしようもなさ過ぎて呆れてしまうほどに。
と、そんな事を考えていると、ヒオリが僕の顔をじっと覗き込んでいる事に気が付いた。
「ナキリ。今何考えてたの?」
「……」
「答えて」
ヒオリは少し怒っているように思う。責めるような口調だ。
ヒオリの真剣な様子に対しては本当に申し訳ないのだが、僕はこうやって彼女に詰められるのは正直好きだったりする。
ずっと見ていたいが、そんな邪な要求を言えばそれこそ呆れられてしまうだろう。
僕はゆっくりと口を開いた。
「ヒオリを怖がらせてしまったんじゃないだろうか……と……。幻滅されてしまっただろうと思っていたのさ。僕の考え方は、他者へ誇れるような物じゃないからね。人としての正しさなんてものは、もうどこにもないのかもしれない」
「もう……。そんな事……」
ヒオリはわざとらしく大きくため息を付いた。そして、僕の両頬にしなやかな白い手を添えて包み込んだ。その表情は、本当に呆れたと言いたげで、でもどこか優しい雰囲気だった。
こんなどうしようもない僕を、優しく包み込んで許してくれるかのようなそんな様子だった。
「あのね。私はずっと傍でナキリを見てきたんだよ? ナキリがどうしてそういう選択をするのか理解できない訳がないじゃん。怖いなんて思わないし、幻滅なんて事は起きるわけがない。見くびらないでほしい……」
「……」
「この暴力が溢れた場所で、最善の選択をするために、生き延びるために必要な考え方なんだと私は理解してる。だから……」
そこでヒオリは小さく息を吐いた。そして改めてしっかりと僕と目を合わせた。
「だから、そんな諦めたような悲しい顔をしないで欲しい。いつまでもずっと、私はナキリの隣を歩きたいって思ってる。どこまでもついて行きたいから。ずっと隣で同じ景色を見ていけたらいいなって思うの。私を置いていかないで欲しい……。自分とは違うんだって壁を作られて距離を置かれたら私は悲しいから……」
気がつけば僕はヒオリをキツく抱きしめていた。彼女といる時だけは、僕は自分自身が人であるような気がしてしまう。繋ぎ止めて貰えているようなそんな幸せな錯覚を……。
僕は改めて思う。守らなければならないと。ヒオリに見せる景色が薄汚れているなんてあってはならない。隣を歩こうとしてくれる彼女には可能な限り美しい世界を……。
「ナキリ……。あの……その……」
ヒオリは突然ごにょごにょと口ごもる。どうしたのだろうか。僕は視線を彼女へと落とし、静かに話し出すのを待つ。
「私、今夜はナキリとずっと、一緒にいたいな……」
「ふむ……」
今夜は一緒にいたい……と……。
つまりそれは……?
まさか……?
いや。違う。落ち着け。
僕は咄嗟に何でもないフリをした。
必死で落ち着いているように振舞った。
雑念を気合いで振り払う。
正直今の彼女の一言で僕の頭は真っ白になっていた。色々と考えていた事も全て吹っ飛んでしまった。
内心大パニックで慌てふためくそんな僕の気持ちなどお構い無しに、ヒオリはギュッと僕に抱きついてくる。子供の頃に抱きつかれたのとは全く感覚が違う。僕はトドメを刺されたかのように、どうにかなってしまいそうだった。
だが、僕はちゃんと理解している。ヒオリはただこうして寄り添っていたいだけだということを。それ以上の意味などないのだ。彼女はそういう子なのだ。
僕とは違って。
「お願い……」
「うん。いいよ」
こうして僕はヒオリと夜を過ごすこととなった。
それは同時に、僕自身との戦いの始まりでもある。この時ばかりは、彼女が望む『最善』の対応が出来てしまう僕自身が、心底憎らしく思えた。




