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ナキリの店  作者: ゆこさん
1章 雑用係の日常
2/96

1章-1.最下層とは 2000.5.2

「おらぁ!」


 男の怒鳴る声とともにゴブッと鈍い音がした。直後僕は頬に激しい痛みを感じ、そしてよろけて床に転がった。


「気持ちは分かるが、店の雑用君をあまり虐めないでやってくれ。換えを探すのは結構大変なんだから」

「ちゃーんと、加減してますよぉ! 店長!」


 口の中が切れたようだ。血の味がする。

 ズキズキと痛む頬を抑えながら、僕は店の床を自身の血液で汚さないように気をつけて体を起こす。そして転がった黒縁のメガネを拾い上げた。

 幸い眼鏡は無事なようだ。歪みもないので安心する。


「あー、お前はもういいから。裏で手当してろ」

「分かりました」


 僕は俯いたままそう返事をして、バックヤードへと向かった。


***


 ここは、裏社会の人間に対してあらゆる仕事を紹介する店だ。もっとはっきり言ってしまえば、『殺し屋に仕事を仲介する店』である。


 子供の頃、おおよそ4歳程度の頃に買われてから、ずっと。10年以上もこの店で雑用をして生きてきた。

 着るもの、食べるもの、寝る場所と、衣食住は最低限与えられて給料も出てはいる。だが、日々理不尽な目にあい、奴隷と差程変わりない扱いを受けていた。


 だが、僕はそんな環境でも文句も言わず、抵抗もせず、ずっと雇用主に従い続けている。その理由は至極簡単だ。この生活が、()()でも()()でもないという事を、嫌という程に理解しているからだった。

 

 この裏社会で優位に生きていくためには、他者を一方的に害する事が出来るだけの武力、もしくは金が必要だ。『強い者が正しい』という考え方が浸透しているが故に、何事も暴力で解決しようとする人間が周囲には溢れている。

 つまり、戦うことが出来なければこの社会では優位には立てない。いつまで経っても搾取される側から抜け出す事は出来ない。その上この社会には救済措置なんて無いのだから、弱き者にとっては非常に過酷な環境と言える。

 

 僕は武力も金も無い、まさに『何の力も持たない最下層の部類の人間』であった。しかしながら、衣食住が揃い仕事があるだけ、その中では随分とマシな方なのだ。

 底辺には変わりないが最悪では無い。そんな位置付けにあった。


 だから、こうして理不尽に殴られようとも、殺されないだけマシだと僕は思っている。ここで生きる事を許されているだけ十分マシなのだと。

 そういう考えだからか、今やぞんざいな扱いを受けても、一切怒りなど湧いてくることはない。自分自身にさほど興味が無いのだろう。当然プライドも無い。

 僕が持つ数少ない物の中で最も高価といえる眼鏡の無事を確認する方が、自身の体を労る事よりも優先されるくらいだった。

 

 正直。

 僕は何故生きているのか。

 僕自身も分からない。


 生きたい理由は恐らく無い。だが、死にたくはないのだとは思う。

 ただ生き物の本能として生きていたいというだけなんだろうと、僕は自身をそんな風に認知している。

 

 そんな弱弱しい理由しか持たないくせに、明日も生きていられる保証もないような過酷な環境下で、よく10年以上も生き延びたなと自分でも思って笑ってしまう。

 少しでも長く生きられるようにと、僕は常に『最善』を選択し『最善』を演じる事で生き延びてきた。その点だけは、何も持たない僕でも、少し自信がある事だと言える部分かもしれない。


「あぁ、最悪だ……」


 僕は言葉を零した。

 バックヤードにある流しで口をゆすぐと、吐き出した水は真っ赤に染まっていた。

 その光景に落胆する。口の中が思った以上に酷く切れてしまっているようだ。

 

 流しの正面にある鏡を確認してみれば、冴えない青年の姿が映る。黒色の短髪に黒縁の眼鏡を掛けた男。他にこれと言って特徴のない姿だ。

 そして、酷く赤く腫れた頬。何とも悲壮感が漂っている。自分でも、見ていて気の毒になる程だった。

 

 僕は日頃、店主や、この店にやってくる殺し屋達から目をつけられないように、細心の注意を払って生きている。もしミスをすれば待っているのは死だ。僕の代わりなんていくらでもいるのだから、絶対にミスは出来ない。極力反感を買わないように立ち振る舞う事を徹底していた。

 実際、僕は何人も同僚が死んでいくのを近くで見てきた。何かしらミスをした者は勿論、店主や殺し屋達に口答えをしたり反抗した者は尽くその場で殺された。理不尽を受け入れる事が出来なければ、ここで生きていく事はできない。

 それを長年見続けたからか、もうそういうものだという認識しかなかった。


 僕は用意した氷嚢で頬を冷やしながらも、分厚いファイルを広げ事務作業を開始する。仕事は山積みだ。殴られたからと言って休んでいる時間は無い。滞りは許されない。

 同僚は皆死んでしまい、今は僕しかこの店の雑務を行う人間が居ない。故に自分がやらなければ永遠に仕事は終わらない。

 幸いこの店は大きくない。自分一人でも何とか回す事ができていた。


 店主の様子を見る限り、当分新しい雑用係を雇うつもりはなさそうだ。そのせいか、店主は先程のように少し僕の事を庇ってくれる時がある。

 店主としても、今この瞬間に僕がいなくなるのは面倒なのだろうと考えられる。


 暫く静かに雑務をこなしていると、バックヤードと店を隔てる扉がギィーッと音を立てて、ゆっくりと開いた。店主が顔を覗かせこちらを見ている。

 僕は手を止めて店主の方へと体を向けた。


「店の戸締り頼んだぞ」

「分かりました」


 店主はそれだけ言うと去っていった。

 店主は30歳前後の男だ。名前は牛腸(ゴチョウ)というが、殆どの人間が彼をその名で呼ばない。皆『店主』または『店長』と呼んでいた。

 体型は小太りで濃い髭面である。強面の部類の人相で、実際のところよく声を荒らげる乱暴な人間だ。しかしながら仕事は非常にできるタイプであり、殺し屋達との繋がりも強い。そんな人物である。

 

 店主に逆らおうものなら、店主と仲の良い殺し屋が代わりに制裁するだろう。故に僕のような力のない人間は店主には一生逆らえないのだ。逃げる事すら許されないのだから、死ぬまでここでこき使われる運命にある。

 店主が寿命で死んだら解放されるかもしれないが、それまで生きていられるかは分からない。あまり期待するものでもないなと感じて僕は小さくため息をついた。


 それから更に時間が経過して、夜中の1時を回ろうとしている頃、僕は立ち上がり書類をあるべき棚へ戻した。頬の腫れも少しマシになったところで事務作業を切り上げる。

 あとは店側の片付けを行えば今日の仕事は終わりにしてもいいだろう。僕は店側へと向かった。


***

 

 店には、殺し屋達に仕事の受け渡しを行う場である小さなカウンターの他、ファミリーレストランにあるような簡易なテーブルセットが壁際に15組、立ち飲み屋にあるような小さな丸テーブルが10卓程ある。それなりに広い空間で、多くの殺し屋達が夜な夜な集まって騒いでいる場所だ。

 

 誰もいなくなったこの場所のテーブルの上には、乱雑に酒の空き瓶や空き缶が残されている。床にはゴミが散乱していた。僕は無心でそれらを片付ける。夜になると決まって殺し屋達と店主はこの場で飲みながら雑談をするのだ。その残骸がこれである。

 僕は散乱していたゴミを綺麗に片付け、店主が出しっぱなしにしていた店の書類もあるべき場所に収納する。翌朝少しでも汚れていたら店主の機嫌が悪くなるのだから、抜かりなく掃除も行う。


 全ての片付けが終わったのは夜中の2時だった。僕は戸締りをして店を出た。

 店は、鉄筋コンクリート造の地上5階建て地下1階の建物のうち、地下1階にある。一度店の外に出て、外部階段で地上階へ。

 地上階のピロティ空間に出ると、屋外の風がふわりと吹き抜けていった。夏が近づく深夜だ。僕は少しだけ肌寒さを感じた。

 

 この5階建ての建物全てが店主の持ち物である。地上階は従業員や殺し屋達の居住スペース、物置等関連した施設となっている。僕も例に漏れず、買われた時からずっとこの建物に住んでいた。一方で店主はこの建物とは別の場所に住んでいる。

 ここからそれほど遠くない場所にある、それなりに良いマンションに住んでいたはずだ。雑務の関係で2度訪問した事があるが、こんな暗い影を落とすような所とは無縁の場所で、清潔で明るく無垢な印象を受けた記憶がある。

 

 法で守られた善良な市民、それもそれなりの金を持った人間達が住む場所なのだろう。あまりにも僕とは無縁の空間で、終始落ち着かなかった記憶がある。

 僕のような人間は絶対に足を踏み入れてはいけない空間だったのだろうと何となく今も思う。


 僕は建物1階、ピロティ空間に面する錆びた扉を開けて、建物内に再度入る。少しかび臭い廊下を真っ直ぐ進んで行く。1階は基本的に倉庫だ。

 店の備品の他、非常食や武器も保管されている。当然ここの管理も僕の仕事である。在庫が不足すると店主に容赦なく罵倒され殴られるので、常に余裕のあるストックを保ち、残量を正確に把握している。


 僕は廊下を抜けて階段室へと入る。この5階建ての建物にはエレベーターは無い。建物内に2か所ある屋内階段で上階へと上がるしかない。僕は疲弊した体に鞭を打って階段を上がって行った。


***

 

 3階のフロアに着いたところで、ふとフロア内に明かりが付いているのに気が付く。目的は最上階の5階にある、自分に割り当てられた部屋なのだが、この時間に3階に明かりがついているのはおかしい。僕は迷わず明かりがついている部屋へと向かった。

 3階は殺し屋達の居住スペースのうち、共用で使用する空間だ。当然のことながらその共用の空間も僕が管理している。掃除や備品の整備を行うのだが、当然不備があれば怒られる。相手は殺し屋達である、下手をすれば殺されるため、こちらも抜かりなく管理している。


 明かりの消し忘れであれば消すだけなのだが、何か問題が起きて荒れていたら大変だ。夜中のうちに掃除をしなければならない。

 僕は何事もない事を祈りながら廊下を進んだ。

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