3章-6.力とは 2000.9.4
夜、僕が自室のデスクで一人で仕事をしていると、僕の部屋の扉をノックする音が聞こえた。控え目なノックだ。店主でも氷織でもグラでもないなとあたりを付ける。
僕は立ち上がって扉の前まで行くと、ドアスコープから外の様子を確認する。するとそこには、暁の店から連れて来た雑用係の少女が一人で立っていた。俯いているようで表情は分からない。僕はゆっくりと扉を開けた。
「夜分遅くにごめんなさい。今大丈夫ですか?」
そう言って少女は僕を見上げた。その時僕は彼女の顔を見て驚いた。
頬が真っ赤に腫れているし、制服の首元のボタンは取れてしまっていた。よく見れば、いつもキチンと1つに結わえている肩までの長さの黒髪も一部乱れている上、泣いたのだろう、目も真っ赤に充血していた。
「大丈夫だよ。入って」
僕は少女を自室へと招き入れた。
***
僕の部屋の入口を入って直ぐは、4人掛けのソファーセットが設置されている。僕は彼女をそこへ座らせた。体が震えているようだった。相当怖い目にあったのかもしれないと想像する。
僕は急いで冷蔵庫から保冷剤を取り出し、タオルにくるむと少女の元へと戻った。そして、向かいの席に座り保冷剤を少女へと手渡した。
一体何があったのか。大体予測はできるが、僕は少女が話すのを静かに待った。
「百鬼さん。私強くなりたいんです。でもどうすればいいのか分からなくて……。教えて頂けないかと」
「ふむ……」
少女の目は至極真剣で、力強い物だった。彼女らしい強い意志が、その黒い瞳に現れていた。
僕は考えた。少女がこのように言うのは、暴力に対抗したいからだろうと。恐らくは理不尽に殴られたのだろうと思う。誰に殴られたのかは大体想像できている。
「強さには色々あるよ。どんな強さを求めているのかな?」
僕は少女の考えを引き出そうと試みる。この少女は、僕に暴力から守って欲しいと助けを求めるというよりは、自力でこの問題を解決するために教えを乞いにきたのだと分かる。
「強さとは単純に筋力だけじゃないのさ。後ろ盾があるだとか、知識だって非常に強い武器だからね」
「はい……」
彼女の表情が曇る。彼女の事だ。自分で出来る限りのことはやったうえで、どうしようもなくなってここへ来たのだろうとは想像がつく。
「確かに強さには色々あると思います。でも、私には何よりも筋肉が必要です!」
「そっか。筋肉ね……」
真面目に筋肉が欲しいと言う少女の姿勢には、ちょっと笑ってしまうが、真剣に考えた末の答えなのだろうと思うと笑うのは失礼だ。
僕は最近支給されたばかりの黒い携帯電話を胸ポケットから取り出し、メールを打ち始める。
「暁さんの店だと、雑用係への暴力は無かったみたいだけれど、ここは違うからね。女性には厳しい環境だよね」
この地域は特に治安が悪い。故に統治の仕方が暁の店とは全く異なるのだ。
僕達の店の店主である牛腸は、全てを力でねじ伏せるというのを基本の方針としている。ここはそういう場所なのだ。この方法でしかこの場所は仕切れない。
この事実を僕自身が知ったのは、実はつい最近だ。他の店や地域についての知識を得て初めて、自分の店を客観的に見る事が出来るようになった。
本当に、幼い少女には過酷すぎる環境であるとは思うが、ここへ来た以上、上手く立ち回ってもらわなければならない。僕達はそれを彼女に求めているのだから。
僕はメールを打ち終わると、携帯電話を胸ポケットに仕舞った。僕は少女を真っ直ぐに見る。
これだけボコボコにされても、彼女は一切諦めたような目をしていないのだから、根性があるなと思う。暴力によって言いなりになるという選択はあり得ないと考えてるのだろう。
「そうだね。僕から君にアドバイスするとすれば、もっと狡猾になるべきかな。この問題は君一人で解決できるものじゃない。要は君の持って生まれた体だけじゃ、どうにもできないという話さ。君が考えたように筋力をつける事は大事だけれど、たとえ筋力を得たとしても完全には防げないだろうね。君はどこまで行っても一般的な女性の体力しかないから」
「狡猾にですか……?」
「うん。君は記憶力が良くて賢いから、上手くできると思っているよ。ここは正しい事が正しく受け入れられる場所ではないからね。それに適した振る舞いが求められるんだ」
少女は何かに気がついたようだった。その様子を見て僕は少し安心する。
ここは正義が貫かれるような場所じゃない。強い人間が言った事が正しいとされる場所だ。この少女のような誠実な姿勢は本当に素晴らしい事ではあるのだが、ここでは通用しない。
それが理解出来れば、どうあるべきか少女ならば分かるだろうと僕は思う。賢く生きなければ、ここでは生き残ることは出来ないのだ。
と、そんな話をしていると、コンコンと扉をノックする音が部屋に響いた。
「ナキリ、入るよ」
扉が静かに開いて、氷織が部屋にやってきた。部屋で休んでいたところだったのだろう、彼女はスウェット姿で髪を下ろした状態だった。もう寝るところだったのかもしれない。
「急に呼んでごめん。ヒオリに頼みたいことがあるのさ」
「頼みたい事?」
彼女をここへ呼んだのは僕だ。メールで、可能ならすぐに来てもらうようにお願いしたのだ。
ヒオリは僕達の座るソファーセットの所まで来ると、その瞬間少女の顔を見て目を丸くした。
「ちょっと! え? どうしたの? こんなに腫れちゃって……」
ヒオリはすぐさま少女に駆け寄り、少女の顔の怪我を心配していた。予想通りの反応である。
少女は心配するヒオリに苦笑いを浮かべていた。その様子は明らかに痛々しく映る。
「ヒオリ、彼女は戦えるようになりたいそうだ。だから、彼女に少しでいいから護身術を教えてあげて貰えないかな」
「戦うって……」
「困惑する気持ちは分かるけれど、多少なりとも自衛できないと雑用係は続けられないから」
「それはそうかもしれないけれど……」
ヒオリは迷っている様子だった。視線を僕から少女に向ける。
「中途半端に戦えても、もっと酷い目にあうかもしれないんだよ?」
ヒオリは少女に優しく、それでいて諭すように言う。圧倒的な強さがあれば酷い目に合わないのは明らかであるが、中途半端な強さは逆にあだとなる事がある。
抵抗されないようにと過剰な暴力を受ける可能性があるのだ。むしろ無力な方が、身体への被害が減る場合もある。
ヒオリはその現実を知っているからこそ、危惧しているのだろう。少女を心配するゆえの発言だ。
「そんな当たり前の事……。ナキリなら分かるよね?」
ヒオリの視線は僕に向けられる。物言いは非常にキツい。僕を責めているようにも聞こえる。
「分かっているさ。それでも彼女は強くなりたいそうだ」
「そんな無責任なっ!!」
ヒオリは僕を睨む。本当に心の底から少女を心配しているのだろうなと思う。
さて。僕が出来るのはここまでだ。あとは少女の腕の見せどころだろうと思う。そう思って黙っていると、少女は小さく口を動かした。
「ヒオリさん……」
少女はか細い声でヒオリを呼ぶ。
「あの、私に対する暴力はどうやっても無くならないんです。だから、せめてちゃんと受身が取れるとか、上手く逃げられるようになるとか、そういう対処をできるようになりたいんです」
「そんな……」
少女は困ったように微笑んでいた。儚げなその様子は庇護欲を掻き立てる。上手だなと僕は思った。
「ナキリ、どうにか出来ないの?」
「無理だよ。ここはそういう場所だし、これが店主であるゴチョウさんの方針なんだから。今から方針を変えたらこの店は力を失って直ぐに潰されるよ」
「……」
「それにね、最低限の護身術は必要だと思う。彼女は女の子なんだから。大人になった時どんな目にあうか。その時までに何かしらの強さがなければダメなんだよ」
ヒオリは苦虫を噛み潰したような表情をしていた。僕が言わんとしていることに気がついて、より一層辛くなったのだろうなと思う。
「ヒオリ、これは店からの指示じゃなくて、僕からのお願いだから、ダメなら断ってくれてもいいんだ」
「っ!! そんな事言われて私が断れるわけ――」
「ヒオリさん、私からもどうかお願いします。この店には他に女性の方がいなくて……、頼れるのはヒオリさんだけなんです……。迷惑にならないようにしますから、どうかお願いします!」
深く頭を下げる少女を見て、ヒオリはしばらく考えていたようだが、小さく息を吐き出すと、仕方ないなと言いたげな様子で少し笑った。
「分かった。私が責任もって教えるね。ただし、条件があるの」
ヒオリは真っ直ぐ僕を見る。どうやら条件を出す相手は僕のようだ。
「この子を殴った子、誰? 教えて。それと、今のこの子達の関係性とか状況とか。ナキリは全部把握してるんでしょ? 全部私に教えて。それから、今後も包み隠さず教える事」
「これは手厳しい……」
「それが条件だよ。ナキリのお願いでも、それを教えて貰えないなら引き受けられない」
「分かった。その条件をのむよ」
ヒオリは責任感が強い。それ故に中途半端に関わるのは嫌なのだろうなと思う。関わるならばしっかりと向き合いたいと考えているのだろうと思う。ありがたい限りだ。
はっきり言ってこの雑用係の少女は有能だ。こんな事で失うのは惜しいと思う。しかしながら、この程度の問題は軽く乗り越えて欲しいというのも事実。これだけアシストしたのだから、後は本人が何とかするだろう。
あまり表立って特別扱いは出来ないのだ、後の事はヒオリに任せてしまう方がいいかもしれないと思う。
彼女達の間に、プレイヤーと雑用係という立場の違いがあったとしても、女性同士で仲良くするのはさほど不自然なことでは無い。自然と仲良くなったのだと周囲は認識するはずだ。
副店長の肩書きがある僕が、下手に関わるのは良くないと何となく感じる。だから出来るのはここまでだと、そう思うのだ。
直接的に関われば贔屓になり、雑用係達の間でいらぬ争いが起きるだろう。そうなれば、状況が悪化する危険性だってある。
さらに、周囲から『この店の副店長は女性には優しい』なんて見方をされても面倒だ。この店の信用度を落としかねない。故に、僕が直接関わるべきではないと考えている。
幸い彼女達は相性が良さそうに見えてほっとする。
というのも、実はこの店に所属する女性は現在、ヒオリとこの少女、そして、グラが施設で選んだプレイヤーの少女と、たったの3人だけなのだ。女性特有のことを僕が理解しフォローするのにも限界があるだろう。
だから、彼女達の仲が良いのは非常に良い事だと思う。僕は彼女たちの会話を微笑ましく思いながら見守った。
こうして、少女はヒオリという強い後ろ盾を得たわけだ。ヒオリは専属プレイヤー、それも僕が大事にしている人なのだから、その効力は相当なものだと言える。
とはいえ、その後も継続して少女がヒオリを味方に付けられるかは少女の行動次第ではある。上手く行けばいいと僕は思うのだった。