3章-5.酒とは 2000.8.11
「うっ……」
僕は激しい頭痛と共に目覚めた。
頭がぐわんぐわんと回るようだ。平衡感覚がおかしい。気持ちが悪い。
「あれ、起きたの? 百鬼、大丈夫?」
「え?」
僕は驚いて瞼を開けた。
すると、目の前に氷織の顔があった。ぼやける視界ではあるが、寝ている僕の顔を心配そうな表情で覗き込んでいる様だった。
僕は何とか上半身を起こしたが、頭が割れるように痛いし、吐き気が酷い。
周囲を確認すると、僕の部屋だった。僕の部屋の寝室だ。どうやってここへ帰ってきたのかさっぱり分からない。僕はヒオリが手渡してくれた眼鏡を掛けると、再び周囲を確認しながら状況の把握を試みた。
ヒオリは、今日もオフの日だったのだろうか。白のノースリーブのブラウスに、スキニーのジーンズを着ていた。夏らしく涼し気な装いだ。今日の髪型は高い位置でポニーテールにしているようで、彼女らしい、活発な印象を受ける。
「昨日、ナキリが酔い潰れたって聞いてびっくりして……。グラ君がここまで運んでくれて……」
「……」
一方の僕は寝巻に着替えた状態であり、ベッドにしっかりと寝かされていたようだと分かる。いつどうやって着替えたのかすら分からない。
「ほら。お水。それとこれ、二日酔いのお薬だって。店長から貰ったの」
僕はヒオリからペットボトルの水と薬を貰い飲み込んだ。体はカラカラに渇いていたようで、ただの水が非常に美味しく感じた。ごくごくと喉を鳴らして一気に飲むと、少し体が楽になった気がした。
僕はなんとか昨日の事を思い出そうとする。たしか、店のゴミを片付けていた時に専属プレイヤーのトラに声を掛けられ、一緒に飲むことにしたはずだ。
そこで色々な話を聞いたはずだが、途中から記憶が無い。全く思い出す事が出来なかった。僕はアルコールの恐ろしさを、初回から思い知らされたのだった。
「僕は一体……? ヒオリ、ごめん。とても迷惑をかけたね」
「ううん。大丈夫。気にしないで」
ヒオリはこんな情けない姿の僕にも、優しく微笑んでくれる。
「僕昨日の記憶が殆どないんだけれど、ヒオリはあの後何があったのかって知ってる?」
「え? あ、えっとそれは……」
ヒオリは明らかに動揺している。視線を逸らし挙動不審だ。その様子から、何かしらは知っていそうだと推測できる。
「もし、知っていたら教えて欲しい」
「えっとね。それはね……」
彼女はさらに顔を赤くしてしまった。この反応はおかしい。非常に嫌な予感がする。
「あの、私もトラさんから聞いた話なんだけれど……」
「うん」
「酔っぱらったナキリは、ずっと惚気ていたって……」
「……」
「……」
一体僕は何を口走ったのだろうか。恐ろしくて血の気が引く。
「具体的に僕は何て?」
「えっと……。『ヒオリが可愛すぎて困る』ってずっと言ってたって」
僕は両手で顔面を覆い俯いた。これは再起不能だ。終わりだ。挽回なんて出来る気がしない。
だが、どうにかしなければと思う。僕が恐る恐る顔を上げて彼女を見ると、彼女も恥ずかしがりながらも俯いていた。耳まで真っ赤に染まり少し震えていた。
「ヒオリ」
僕が呼ぶとヒオリはゆっくりと顔を上げた。その顔には戸惑いの感情が出ていた。そんな彼女の仕草も何もかも全て愛らしいと思えてしまう。
そんな自身の感情を抑えられる気がしないのだから、僕はそろそろダメかもしれない。
僕は意を決する。こんな中途半端な事をしたままでは彼女に申し訳ない。そう思うのだ。僕はゆっくりと口を開いた。
「酔っぱらった勢いでしか言えないなんて、僕は本当に情けなかったね。こういうことはちゃんと本人に伝えるべき事だったのに」
「え?」
彼女は困惑した声を発した。だが、僕は続けるつもりだ。もう、ヒオリは僕の気持ちに気が付いているのだろうから、それを隠し続けたり無かったことの様に振舞ってはいけないと思う。
ここで改めて僕の口から直接、しっかりと伝えなければと思う。酔った勢いで言っただけなんて、不誠実であると思うのだ。
「ヒオリ。好きだよ。本当に大切に思っている。いつからそう思うようになったんだろうか。気が付いた時には、ヒオリを可愛いと、素敵な女性だと感じて、惹かれていた。ただ、僕はずっと雑用係だったから、そんな身分の人間が好意を示しては迷惑にしかならないと思っていて。だから、ずっと隠していたんだ」
「うん」
「もう、隠さなくてもいいだろうか」
ヒオリは小さくこくりと頷いた。僕は布団を除け立ち上がり、彼女の正面に立つ。こんな寝巻きの姿でというのは情けない話だが、今この場で伝える事の方が何よりも大事だろう。
僕は姿勢を正してヒオリを真っ直ぐに見つめた。
「ヒオリ。僕と付き合って貰えないだろうか」
「私……で、良いの……?」
「ヒオリが良い」
「でも……。でも、ナキリはもうすぐ独立して店主になるんだって皆が言ってて……。それなら私よりもずっと素敵な――」
「僕は、ヒオリが好きなんだよ」
「っ……!」
僕を見上げるヒオリの瞳は潤んでいた。
「ヒオリの答え、聞かせてくれるかな?」
「うん……」
ヒオリは大きく息を吸い込むと、ゆっくりと息を吐き出した。とても緊張しているのだろうなと思う。そして、力強い目で僕を真っ直ぐに見た。
その後、彼女は優しく微笑んだ。それは、眩しいくらいの素敵な笑顔だった。
「勿論。勿論、私の答えはイエスだよっ!」
言い終わると同時に、ヒオリは勢いよく僕に抱きついてきた。僕は何とか彼女を支える。そして、優しく抱きしめた。
自分の心臓がバクバクと大きな音を立てているのが分かる。この音をヒオリに聞かれていると思うと、非常に恥ずかしくなる。
「ナキリお酒臭い」
「それは本当に……ごめん……」
こればかりは本当に申し訳なく思う。
僕の腕の中で彼女は顔を上げ、悪戯っぽく笑った。
幼い頃は、よくヒオリにこうして抱きつかれたなと僕は思い出した。仕事で失敗して落ち込んだ時、彼女は決まってこうして僕に頼ってくれていたなと。何だか懐かしい気持ちにもなる。
ここで長年共に育ってきた事で、彼女の事は妹のように思っていたが、まさかこんな関係になるなんてと改めて思う。
体格だって以前は小柄な僕と大差が無かったのに、今ではヒオリの方が一回りも小さい。肩幅だって全然違うし、腕の太さも全く異なる。
お互い大人になったんだなと感じる。僕が酒を勧められるくらいになったのだ。それもそうかとも感じる。
「なんか懐かしいね」
「そうだね」
ヒオリは僕を見上げて嬉しそうに微笑む。そんな様子を見るだけで、僕の心は癒されていくようだった。自然と優しい気持ちになれる。僕は僕自身がこんな感情を抱けることに驚いていた。
心など死んでいるようなものだったはずなのに。いや、死んでいた心が生き返ったという事のように思う。ヒオリによって人間の心が帰って来たといった気分だった。
と、そこへコンコンと扉をノックする音が部屋に響いた。誰かが僕の部屋を訪ねてきたようだ。ヒオリはその音にびっくりして、一瞬にして僕から距離を取っていた。
僕の部屋の扉は、僕が返事をしないうちに勝手に開く。そしてそこに現れたのはトラだった。
「お。ナキリ起きてたか! いや、昨日はすまなかったな!」
トラは笑顔でそんな事を言う。全く悪いと思っていなさそうだ。
僕が彼の様子を見てそう思っていると、ヒオリが無言でずんずんと速足で歩いてトラに近づいて行く。
そしてトラの前まで行くと、彼女は腰に手を当てトラに圧を掛けながら見上げていた。僕からは彼女の後姿しか見えないので表情は分からないが、明らかに怒っているのが分かる動きだった。
きっと鋭い視線でトラを睨みつけているのだろうと思う。
「もう! トラさん! ちゃんと反省してください! ナキリがお酒に弱かったら大変なことになっていたんですよ!」
怒りの籠った声だ。そんな彼女の様子にトラは面食らっている様子だった。
「いや、反省してだな。牛腸とグラにもたっぷり怒られたし、こうして店の雑務をナキリの代わりにしてきたんだから許してくれよ……。ってヒオリ、ついにナキリを呼び捨てで呼べるようになったのか! 良かったなぁ! お兄さんも嬉しいよ」
「なっ!!!」
「それに、なんだ、その雰囲気だと……。あぁ! やっと付き合い始めたのか。良かった良かった。長年の片思いが、超鈍感君に届いてよかったなぁ。お兄さんは泣けてきたよ」
ヒオリはわなわなと震えているようだった。トラはわざとらしく目頭に手を当てて、泣いているフリをしている。完全にヒオリで遊んでいるようだ。
「という事は、俺は完全に邪魔しちまった訳か。わーるかったって! あぁ、そうだ、ナキリ。今日は休みでいいぞ。今日はた~っぷり、存分にヒオリと仲良く過ごしてくれ」
「分かりました」
ヒオリは怒りに任せてトラを殴っていたが、トラはヒオリの攻撃を軽く受け止めて笑っていた。子供をあやしているようにしか見えない。
トラがこうやってヒオリをからかうのはいつもの事だ。僕はそんな様子を微笑ましく思う。
「ヒオリ」
僕が彼女の名を呼ぶと、彼女はトラを叩くのを止めて僕の方へと振り返った。その顔は真っ赤で、瞳が潤んでいる。
トラにからかわれて恥ずかしかったのだろうなと思う。
「せっかくお休みを貰ったんだ。この後、どこか一緒にでかけよう。行きたいところある?」
僕がそう言うと、ヒオリは驚いたように目を丸くした後、僕の方へと小走りで戻って来た。
「うん! 勿論! ナキリと一緒に行きたいところが沢山ある!」
ヒオリはニコニコと笑い、嬉しそうに言う。声も弾んでいた。
トラはそんなヒオリの切り替わりようを見て、呆れたような笑みを浮かべていた。そして、用は済んだのだろう。トラは僕に軽く手を振ると静かに部屋を去って行った。
二日酔いの症状はまだ少し残っているが、動けない程ではない。薬が非常によく効いたようだ。僕は直ぐに支度をし、彼女と出かけたのだった。