プロローグ 1997.6.13
「君。名前は?」
突然話しかけられて僕は手を止めた。その声はまだ幼い少女の声だった。
薄暗い店のカウンターの奥。僕はそこに設置された椅子に座り、存在感を消して淡々と事務作業を行っていた。
そんな自分に話しかける人間がいる事自体奇妙ではあるのだが、名前を問われるとなると更に奇妙だと感じた。
僕はゆっくりと顔を上げて声の主へと視線を向ける。するとそこに居たのはやはり幼い少女だった。年齢はよく分からない。6歳前後だろうか。ただ、妙に貫禄があってもう少し上にも見えた。少なくとも何も知らない子供では無いとだけは感覚的に分かった。
その少女は緩くウェーブが掛かった黒の長髪で、毛先の一部に赤いメッシュが入っている。一重のまぶたに赤い瞳。身長は100センチメートル程度だろう。黒いワンピースに、黒のサンダルを履いていた。見た目は完全に子供だなという印象だった。
「名前ある?」
僕は首を横に振った。僕には特定の名前はない。他者から呼ばれる時は、『お前』だったり、『雑用』だったりと適当に呼ばれていた。僕のような何も持たない人間には名前すらない。それはこの社会では特段珍しい事では無い。
むしろ、特定の名前がある方が珍しい。というのも、僕のような『持たざる者達』は個が目立つ事を嫌う傾向にある。他者から個を識別される要因になる名前なんて厄介なものだ。必要ない。そんな認識だ。
「じゃぁ、ナキリ。百の鬼と書いて百鬼だぁよ。そう名乗ってくれ!」
全く意味が分からない。突然そんな事を言われても困ってしまう。それに、なぜ初対面の歳下の少女に名付けられるのか。全くもって理解できない。
僕が困惑した表情をしていたのが面白かったのか、少女はキャハハッと楽しそうに笑った。
「君の背後には沢山の鬼がいるんだぁよ。そいつらは暴れたがっている。このままここで燻っているなんて勿体ない!」
「はぁ……」
「だぁから、君には名前が必要だ。別に嫌な気はしないだろう?」
「……」
確かにそうなのだ。少女に言われた通り、不思議と百鬼という名はストンと自身に落ち着いた気がした。
「あたしには魂が見えるからぁね!」
少女は憎たらしいくらい自信満々の表情だ。その様子には笑ってしまいそうになる。
「おーい! 柘榴。なぁにやってんだぁよ。置いてくぞ!」
「パパちょっと待って!」
遠く、建物の出入口の方に立つ男がこの少女を呼んだようだ。少女はそちらへ返事をしていた。どうやらその出入口に立つ男性は、この少女の父親らしい。
遠目に見るその男性は、グレーの着物に黒色の袴を着ており二本歯の下駄を履いていた。現代社会ではあまり見かけない、非常に奇抜な装いだった。
「じゃぁね、ナキリ君。またいつかどこかで会えるはずだ。その時を楽しみにしている!」
少女はニッと笑うと颯爽と去って行ったのだった。
僕の中に、百鬼という名を残して。