99.『輪郭は思っているほど確かなものではない』
かつて「きゅうじゅうきゅう」だったもの
できるだけ重荷を背負い、あえて山を登った。
それは逃避ではなく、自己との対話を成立させるための行為である。
都市の喧騒と可視化された他者に晒され続け、自己の輪郭が曖昧になっていた。
言語は断片化し、思考は即応的になり、自己観察の網は目を粗くしていた。
感情は通知に反応し、肯定を渇望するあまり、私的な感動さえ演出の対象となっていた。
共感されやすさが自然な感受性を蝕んでいく。
虚構と自覚していたはずの世界に、生理的にも支配されていると気づいた時、
すでに漫然とした頭痛が日常化していた。
ここでの“痛み”とは比喩ではなく、神経系の警告としての現実だった。
過剰な情報摂取は、自己理解を加速させるどころか、自己との断絶を進行させる。
人間はその構造上、過剰な他者との接続に耐えうる設計にはなっていないのだ。
私は登る。
呼吸音が耳で響く。
心拍の規則性が、忘れていた生体のリズムを呼び戻す。
見上げた枝葉の先に、演出の意図も他者の視線もない。
ただ光が差し込み、風が通過していく。
やがて、言葉が湧き上がった。
「・・・」
誰かに向けたものではない。
私の内側で、わたしが応答した。
「***」
それは、久しく失っていた自己完結的な感情の輪郭だった。