86.『夏はそれでも毎年訪れる』
かつて「はちじゅうろく」だったもの
夏の到来を感じるのは、温度よりも“匂い”だ。
僕が自信たっぷりに言ったら兄は鼻で笑った。
「俺は鼻が利かないからな」と、
軽口を残して、海に飛び込んだ。
何人もの足で踏み慣らされた岩場は、
すっかり平らになって、そこが飛び込み台のように認識していた。
高い岩場も何度も飛んで入れば恐怖を感じなかった。
良くない意味で慣れていってしまっていた。
兄を目で追う。
兄が蟻のように小さくなって、水面に向かって落ちていった。
はずだった。
空に弾けるように、花が咲いた。
赤い花だった。
頭で眼下で起きた事象を理解する前に、
僕の胃は昼に食べたそうめんを吐き出していた。
赤い飛沫が上がり、一瞬で、緑色の海を恐怖に染め上げた。
直感で分かった。
これはもう、どうにもならない類のものだ。
薄れゆく意識の中で、兄の笑い声が聞こえた気がした。
「気にすることはない。だって、わざとなんだから」
それが、幻聴だったのか。
自分の罪悪感が作り上げた逃げ道だったのか。
後から知った。
兄が、苦しんでいたことを。
何度も買いに行かされたノートの行方。
部活を辞めた理由。
顔に増えていった傷。
貸したまま、帰ってこなかったゲームソフト。
あの頃の僕は、それらをバラバラの出来事としてしか捉えていなかった。
未熟な頭では、それを「ひとつ」にできなかった。
あれから数年の月日が流れた。
悲しみから抜け出すことがいまだにできていない。
それでも僕は生きている。
健康に、まっすぐに。
けれど、僕の夏は毎年、決まって苦い。
心臓が、無意識に不快を血液に混ぜ、
胃は、言葉にできない嫌悪で膨らんでいく。
忘れたい。
でも、忘れたくない。
解放されたい。
でも、抱えていきたい。
そうして、また夏が始まる。
解決なんてしないまま、抱えて歩む。