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85.『帰らぬ人と道化の涙』

かつて「はちじゅうご」だったもの

そうか、私は泣いているのだ。

気づいたのは灯りを消してしばらく経ってからだった。


部屋には、嘘のような静寂が漂っていた。


遠くで時計の秒針が規則正しく時を刻む音が聞こえる。

それでも、私の時間だけは止まったままだった。


薄暗い天井を見上げながら、

脳内を巡る記憶は、まるで昨日のことのように鮮明だ。

彼の微かな香りが、まだこの部屋に残っている。


戦場へと向かう前の、最後の夜。

彼の指先が、私の頬に触れた感触は今でも忘れられない。

「必ず帰る」と言ったあの声も、まだ耳の奥にこびりついている。


「・・・」


夜は悲しみを倍増させる。

私はどんどん過去に潜っていく。

その圧力は大きく、海底の水圧のように全身を押し潰す。


体の隙間から血反吐が垂れてこないか。

そんな不安に駆られるほどに。


息が詰まり、喉が締め付けられるような苦しさに襲われる。

あの日からずっと何度も何度も飲み込んだ感情。

やはり、また喉の奥からせり上がってきた。


「これは幸いなことだ」


誰かの声がした。

いいや、誰かではない。

それは、私自身の声だった。


まるで他人事のように呟かれた言葉。

意味などない。

ただ、溺れそうな心を、何かで取り繕いたかっただけ。


顎まで滴る涙が、頬を濡らしていく。

冷たい液体が肌を這う。

自分が泣いているのだと、やっと理解した。


右の眼から涙を流し、左の口は虚構を語る。


「大丈夫、私は大丈夫」


そんなこと、誰も信じないのに。


鏡に映る私の姿は、道化師だった。

張り付いた笑顔と誤魔化すような仕草。

それでも、涙は止まらない。


彼は帰らなかった。

もう二度と私の名を呼ぶことも、

私を抱きしめることもない。


それでも、私は生きるしかない。


彼が守ろうとした世界で、

彼がもう二度と見ることのできない朝日を浴びて、

この命をただ続けるしかない。


涙を拭い、ぎこちなく微笑む

私はまた明日へと足を踏み出す。

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