65.『満杯のワインと零れそうな夜』
かつて「ろくじゅうご」だったもの
グラスに注がれたワインは、艶やかで色っぽい。
このグラスは妻のお気に入りで5年前の誕生日に買ってもらったものだ。
光を受けて赤く輝き、液体でありながら滑らかな流れを見せる。
喉を通る感触は、まるで手で撫でられるように優しく、心のざわつきを洗い流していく。
舌触りもさることながら、鼻腔を抜ける風味がたまらない。
味そのものより、香りが記憶に焼きつく。
甘みと渋み、時間が育てた複雑さが、まるで人生そのもののように広がっていく。
チーズを口にすると、その余韻がさらに深まる。
決してワインを邪魔しない、むしろ引き立てる。
まるで、互いにそっと寄り添いながら支え合う夫婦のように。
そして、何よりのつまみになるのは、友人との暖かい時間だ。
くだらない昔話を肴に、まるで子どもに戻ったかのようにはしゃぐ。
ワインが舌をほどよく緩ませ、笑いが理性を飛び越えていく。
きっと、太古の昔から人間は変わらない。
洞窟の焚き火を囲み、酒を酌み交わし、誰かと時間を分け合って生きてきた。
そんな遺伝子が僕らの中に刻まれているのだろう。
隣に座る友人は、大病を患っている。
来年のこの集まりには、もういないかもしれない。
それなのに、今は大きな口を開けて笑っている。
妻を亡くしたばかりの僕も、こうして笑っている。
悲しみに暮れていることには変わりない。
それでも、いつの間にか笑えるようになっていた。
不思議でならない。
妻を亡くして終始落ち込んでいない自分が気持ち悪い。
忘却や現実逃避も、きっと人間に許された能力の一つなのだろう。
そうでなければ、僕はとうに壊れていたのかもしれない。
グラスのワインが満杯になり、表面張力で浮かんで震えている。
こぼれないように、慌てて口をグラスに寄せ、ズズズと音を立てながら啜った。
それは少し、涙を飲み込む動作にも似ていた。
口いっぱいに苦みが広がった。