61.『孤独な群衆と水槽の輪廻』
かつて「ろくじゅういち」だったもの
集団で生きる動物に、どこまで「個」の意識はあるのだろうか。
水族館に来たのは自分が子ども頃以来だ。
今度は自分に子どもができて連れてくる側になった。
大きな水槽の中、魚たちは群れを成し、一定のリズムで回り続けている。
その動きはまるで一つの意思を持った「集団としての個」のように見えた。
彼らは何を考えているのだろうか。
それとも、考える必要すらないのだろうか。
青暗いこの空間を僕はひどく気に入っていた。
他の人の顔は見えない。
自分が陰に身をやつしているような感覚。
水槽の前に立ち、ただ呆然とその回遊を眺めながら考える。
彼らはなぜ回るのか。
その運動には何か意味があるのだろうか。
もしかすると、一回りするたびに、この世界のどこかで良いことが一つ起きているのかもしれない。
そうだったら良いなと思う。
あるいは、遥か遠い宇宙の片隅で、蕾がひとつ花開いているのかもしれない。
それもまた嬉しからずや。
もちろん、それはただの妄想にすぎない。
けれど、そう思うことで、彼らの行動が無性に健気で、どこか愉快にも感じられた。
我を忘れ、長いものに巻かれ、見えない何かのためにひたすら動き続ける。
そんな生き方は滑稽でありながら、どこか人間の生き方にも似ているように思えた。
水槽のガラスに映った自分の顔を見たとき、僕は息を呑んだ。
「死んだ魚の目」とは、よく言ったものだ。
何かを失ったような、その虚ろな瞳。
そこに映るのは、魚たちと何も変わらない、無表情な自分だった。