56.『変わりゆく紅葉の行方』
かつて「ごじゅうろく」だったもの
風見鶏のように右往左往するものを裁くのは、どうにも面倒だと思う。
そんなことよりも、自然淘汰に任せてしまいたい。
人が決めなくても、風に流されるべきものは、いずれ流されていくのだから。
快楽を求める先に必ず苦痛が待っている。
その事実を君は無意識に隠しているようだ。
快楽だけを追いかけることができるのは、その背後にある苦痛を見ないからだろう。
半分緑で、半分赤の紅葉。
これをどう捉えるかで性格診断をしてみることにした。
「まだ赤くなりきっていない」と見る人もいれば、
「もう緑が失われている」と感じる人もいる。
そのどちらも、その人の心の中を写しているように思えた。
人間の感情を「気持ち悪い」と思い始めたのはいつからだろう。
自分自身も感情を持つはずなのに、それが他人の中で見えると異物に思える瞬間がある。
それを理解したいと思うのか、拒絶したいのか、自分でも分からない。
波が激しければ激しいほど、僕の顔は弛緩する。
涎が垂れるのを止めようともしない。
激しいものに飲み込まれることで、かえって心が静かになるような、そんな感覚がある。
嵐の中でだけ落ち着ける人間がいるのだ。
そんな空想に身を任せていると、真っ暗な画面を気がつけば1時間も眺めていた。
何も映らないはずのその画面に、どれだけの思考や感情を投影していたのだろうか。
何もないはずのものに、僕は何を見ていたのだろう。
一度でも脳に刻まれた快楽。
それは、簡単なきっかけで再び顕現する。
何かを見た、何かを聞いた。
それだけで記憶の底から浮かび上がるその感覚は、まるで忘れたはずの亡霊のようだ。
毎日、世界は変化している。
それなのに、僕たちはその変化に気づかない。
同じように見える景色の中に、どれだけの新しいものが隠されているのだろう。
それを見落とすのは、何とも勿体ないことだ。