55.『戯言もらし』
かつて「ごじゅうご」だったもの
紺青に染まった空の下、由々しき別れの場面が終わった後だった。
そこに群がる野次馬たちのどす黒い笑い声が耳に残る。
悲劇の終焉の直後に見せる彼らの嬉々とした表情は、まるで人間の醜さを凝縮したようだった。
「温度を光沢で表現して、ルクスで測ることは可能ですか?」
ふと誰かが尋ねた。
無機質な提案だが、その背後には温かさを数値化できない無念さが透けて見えた。
きび団子を喉に詰まらせなかった黄色いフラミンゴ。
その姿は妙に立派に見えた。
きっと誰にも気づかれない場所で、自分なりの戦いを乗り越えてきたのだろう。
僕たちはそれを「偉い」と認めるべきかもしれない。
「楽しいことがない」と嘆く声が聞こえる。
けれど、それは楽しみが必要だと思い込んでいるからだろう。
楽しみが「あるべきもの」という前提に縛られているその思考に、僕は少し苦笑した。
「此畜生!」
松竹梅の掛け声が、いつにも増して絶好調だった。
木々の静けさを破るその声は、どこか滑稽でありながら力強さもあった。
眠気と疲労は相関しない。
だから、疲労を図ることは難しい。
体は重くても眠れない夜がある。
そんなとき、自分の疲れがどれほど深いのか、誰にも分からなくなる。
前提として、「寺に南瓜が生っているのを見たことがありますか?」
そんな問いかけが頭をよぎる。
確かに見たことはない。
それが何を意味しているのかはわからないが、その不思議さだけが記憶に残った。
御朱印と聞いて、勝手に赤色が主だと思い込んでいた。
けれど実際には多様な色が混じっていて、その先入観が崩れたときの妙な気恥ずかしさを覚えている。
「例年以上の〇〇」というフレーズを耳にするたび、それは本当に例年以上なのかと疑いたくなる。「例年通り」でいいじゃないかと思うのに、それでは人は満足しないのだろうか。