40.『連続だからこそ見える幹の尊さ』
かつて「よんじゅう」だったもの
木目の机に置かれたマグカップ。
白い湯気と共に漂う珈琲の香りに表情が綻ぶ。
椅子に深く腰掛けて身を委ねる
ある時から僕は、毎日記録をつけるようになった。
前から日記の有用性は見聞きしていたが実行までの壁が高かった。
単に面倒な気持ちに苛まれていただけなのだが。
しかし、突然記録を書こうという気持ちになって行動に移すことができた。
ノートに出来事を簡略に記し、その日の思いや感じたことを自由に書きなぐる。
文字は汚いし、文章はだんだんと斜めに傾いていた。
しかしそれは、誰に見せるでもない、自分だけのための言葉だった。
書き終えると、改めて文章に目を通すことなくノートをゆっくり閉じた。
その行為は、どこか儀式めいていて、不思議な達成感を伴っていた。
吐き出す楽しさを覚えた頃、次は、まとめてノートを振り返ることにした。
僕はきっと同じような空虚な日々を繰り返しているのだろうなと思っていた。
しかし、描かれた過去の自分は、変に感情的で今の自分とはまるで別人のように感じられた。
読み返しながら気づいた。
自分は変化し続ける連続体なのだと。
日々の出来事や感情が少しずつ積み重なり、気づかないうちに変わっていく。
それが自分という存在だった。
釣りの楽しみの中に流れる川を眺めるも含まれていたのだと気付かされた。
だからこそ、変わらないものには特別な意味がある。
ノートに書かれた言葉の中にも、一貫しているものがあった。
それは、どんなに変化しても失われない、自分の核。
自分の幹に近いものなのだろう。
ノートを閉じ、静かに深呼吸をする。
変化し続ける自分を受け入れながらも、その幹を見つめて大切にしたいと思った。
どれも自分ではあるけれど、一貫したものがあるからこそ、自分であり続けられるのだ。
記録を続けるその手が、これからも幹を支える枝葉を紡いでいくのだろう。