22.『円環する永久機関の設計図』
かつて「にじゅうに」だったもの
人類の体躯は機械化によって飛躍的に向上していた。
最早、生身の限界に囚われる者はいない。
1000年前に到達した不死の技術は、人々に夢と希望を与えた。
だがそれも束の間、終わりを知らない生がもたらしたのは退屈と浪費の拡大だった。
そして時代は転換し、「いかに生きるか」が、すべてとなった。
皮肉にも、不死であるにも関わらず、人々は「納得できる死に時」を探すようになった。
生を充実させることに全力を注ぐ社会。
そこでは死の概念すら個人の選択肢として再定義されていた。
膨大な知識はメモリーの配布によって全人類が共有可能となった。
特異な身体能力も、かつては特権階級のものだったが、今では100円ショップで強化を得られる時代。
人類は希望と欲望に従って邁進し、「平等で完成された世界」を作り上げた。
それは、長らく夢見ていたユートピアの実現だった。
しかし、完璧な均衡も永遠には続かなかった。
平等が行き渡った先、さらに1000年が経過した頃、人類は新たな流行を求めた。
それは、個性の最大化だった。
人々は思い直した。
「遺伝を伸ばすことこそが、幸せに繋がるのではないか」
そう考えた彼らは、人工物の強化を捨て、知識の共有をやめた。
そして、生まれたままの状態を目指すようになった。
これは2000年前への回帰ではなく、「新たな進歩」と捉えていた。
だが、その進歩は過去の繰り返しを生むに過ぎない。
また、新たな不平等や階層が生まれる。
希望と欲望に邁進する中で、彼らは再び同じ問いにぶつかるのだ。
「これが人類の答えなのか?」
しかし、答えはない。
逡巡し、迷走し、困惑する。
それでも、その円環の繰り返しすら、壮大な設計の一部だった。
人類の歴史と進化、そのすべてがマクロな視点から見ると一つの永久機関のように動いている。
彼らは気づかない。
円環そのものが生命の本質であることを。
それでも、彼らは歩みを止めることはない。
そうするように設計されたのだから。