20.『大空のくじらと肉じゃがの日』
かつて「にじゅう」だったもの
友人と別れた後、彼女はひとり坂道を登り始めた。
風が吹き抜け、耳元でその音が微かに鼓膜を震わせる。
それ以外には何も聞こえない。
世界に自分だけしかいないような感覚が押し寄せ、居心地の悪さに包まれる。
ふと、彼女は立ち止まり、背後を振り返った。
夕焼けが空をカーテンのように染め上げ、暖色のグラデーションを描いている。
それを眺めていると、不思議な感覚が彼女の中に湧き上がってきた。
地平線から何かが昇ってくる。それは雲に隠れ、初めははっきりと見えなかった。
やがて、その姿が明確になる。
「ああ、くじらだな」
彼女は思った。
夕焼けに染まる巨大なくじらが、大空を悠然と泳いでいた。
その姿は、現実離れしているのにどこか自然で、彼女の目を釘付けにした。
長い間、彼女はそのくじらの遊泳を眺めていた。
ふと、くじらと目が合った気がした。
その瞬間、彼女は理解した。
「もう行くんだな」
くじらは弧を描くように泳ぎ、少しずつ夕陽へと吸い込まれるように消えていった。
「きっと太陽へ向かって宇宙を旅するのだろう」
彼女は思った。
だが同時に、現実の海辺に打ち上げられたくじらの死体が爆発するという話を思い出した。
あんなに美しいくじらでも、腐敗すれば臭いを撒き散らしながら爆ぜるのだろうか。
夕空の幻想と現実の乖離が、彼女の心に小さな亀裂を生む。
地球と太陽の距離を思う。
自分の理解を遥かに超えた過酷な航路で、きっとくじらの命は擦り減ってしまうだろう。
その匂いが地球に届くとき、世界はガスマスクの世界になるかもしれない。
みんながシュコーシュコーと音を立てながら暮らし、過去の布マスク生活を懐かしく振り返る日が来るのかもしれない。
「私は疲れているんだろう」
彼女は苦笑した。
夕焼けも、くじらも、すべてが遠い夢のように思えてきた。
ふと、今日の夕飯のことを思い出した。
「肉じゃがだ」
その一言が彼女を現実に引き戻す。
気を取り直して彼女は右足に力を込め、再び坂道を登り始めた。
どこまでも続くように見えた坂道の先には、明かりが灯る家が待っている。