序幕 一世一代の扇落とし
「ふ、不承知でございます!九朗殿!」
与一は思わず顔を引きつらせた。震える声を総大将である源義経にぶつけるが、天狗の子は与一の態度を興覚めの表情で見つめていた。
「そうかぁ。屋島に平家が取り入ってこの方、我ら源氏が優勢に事を進めておるのに。兄ならず弟の宗高も不承知とは。那須家は恥知らず及び腰ばかりと、兄上に報せんとなぁ」
「そ、そんな……」
義経の声に与一は顔を青ざめて総大将を見上げる。平伏せた与一の顔を睥睨する戦上手が、与一ではなく屋島の海岸向こう──海に浮かぶ船へと視線を向けた。
与一も振り返る。そこには平家の旗を掲げた小舟が一艘。だがそこに武者の姿はなく、十二単を纏った女官と竿に括り付けられた旗が船首にあるのみ。
「平家がこちらに示威を為す機会を与えているのに、坂東武者ときたら。このような体たらくでは、源氏の世は早々に終わるなぁ」
義経の言葉に与一は蒼白の顔面を彼に向けた。
平家の軍船団の中から女官たちが乗った小舟が出立したのは、初春の日もやや傾き始めた頃合い。試すようにこちらを見つめる女官は言葉にせずとも「射落としてみよ」と挑発の念を顔に浮かべていた。
小舟を見るやすぐに総大将の義経は弓名手を探し出した。だが一人目の畠山重忠は顔色悪く辞退、逆に与一の兄である那須十郎を推薦する。だが兄の十郎もまた戦疵を理由に与一を矢面に逃げ去った。残された与一は抗弁するも今に至り、すでに進退は決まったようなもの。
「で?どうする?不承知を貫くならば、俺が射落としても構わんのだが」
さも面白く無さげに義経がつぶやく。その言葉に与一はとうとう覚悟を決めた。
「わ、かりました。承知仕ります。平家が示し日の丸旗、射落としてごらんに見せましょう」
口が震え、詞もあやふや。それでも覚悟を示した与一に義経は形ばかりの笑顔を浮かべた。
「よい。ゆめ忘れるな、仕損じれば源氏の名折れぞ。あの旗の行く先が我ら源氏の、ひいては那須家の行く先を示すと思え」
「は、ははっ!」
逃げ場がない。与一は脂汗で湿った顔を今すぐ手拭いで拭いたくなった。
すぐに鎧にそでを通し、大弓ひっさげ矢筒に鏑矢を二本だけ持参し乗馬。陽がするすると沖へ沈む中、与一はさぶさぶと波をかき分け旗の直線状へと陣取った。
未だに恐怖で視界が霞む。義経の興を下げればすなわちお家取り潰しもありうる。頼朝という兄あればあの義経という弟あり。
どちらを敵に回しても、那須家の所領から頼朝が陣取る伊豆北条の館まであまりに近い。
坂東武者の一勢力に過ぎない那須家が敵に回していい相手ではなかった。
「南八幡大菩薩。どうか我が矢に菩薩のご加護を」
念じ、弦を引き、構え、再度念ずる。そして与一は一気呵成に弦を引き離した。
ひょうふっと音がする。どうやって矢を放ったかも定かではない。だが武家の習いとして繰り返してきた弓の修練が、与一の放った矢を一目散に扇へと飛ばした。
果たして扇は夕暮れの宙を舞い、蝶の如く舞いながら海中へと没する。その光景を、与一は恐怖で霞む目でしかと捉えていた。
直後、浜からも海からも喝采の声が響く。戦の合間に起きた威信を巡る遊興は与一によって満たされた。源氏の武者たちは箙を叩いて歓声を上げ、平家武者たちも己の船を叩きに叩いて感嘆する。
「お、おわった」
与一は静かに弓を胴に回し、馬の首を浜に向けようとした。が、与一の視線が一人の男の表情を捕らえる。義経だ、かなり不服そうな顔で与一に顎で船を見ろと促す。
(まさか、まだあるのか)
与一は恐る恐る背を向けかけた小舟に視線を向けなおした。先まで竿が立っていた場所に、見たこともない黒塗りの大鎧をまとった面武者が踊っている。その手には先程射落したはずの日の丸を象った扇。
まさか。与一は弾かれるように再度義経と視線を絡ませる。義経は静かに己の拳を、己の膝に叩きつけた。彼が執った行動の意味を、与一が分からぬほど付き合いは浅くない。
覚悟を決め、再度大弓を手に取る。持っていた二本目の鏑矢を弦に番え、一息で放った。
無慈悲な音と共に鏑矢が高鳴り、背を向けていた面武者の背に当たる。鏃がないとて矢は矢。重い鏑矢が背に当たり、面武者が小舟から海底へと転げ落ちた。
下品た歓声が浜から起こる。殺意のこもった沈黙が海から聞こえる。そのどちらすら、今は与一は聞きたくなかった。
夜。戦は小休止となり、夜討ち朝駆けを警戒する源氏の陣で与一は義経に呼ばれていた。
「いやぁ、見事な働きだった。この功労は兄上にしかとお伝えするでな」
「は……」
満足そうに笑みを浮かべる義経に、顔が強張ったままの与一が返事を返す。大役を果たしたのはそうだが、望まぬがままに扇を射落とすだけでなく興を削ぐような振る舞いを強要された与一は心の底から義経への忠義が揺らいでいた。
(果たして俺は、この男とどこまで戦を共にするのか)
まるで鬼のような目をする若き総大将を見る。酒も飲まず、兜すら脱がぬ。
果たして義経は人の子か、鞍馬天狗の使いなのか。与一は己の不平を顔色に出すまいと必死に平静を保とうと苦慮していた。
「そうそう、宗高。お主に面白いものを見せてやる。着いてこい」
「は」
義経が唐突に立ち上がったのを与一も慌てて追いかける。するすると、まるで夜闇を苦にすることなく浜辺を歩く義経に与一がついていくと。
「え?」
そこは陣が置けぬと判断された松原の中。誰かがこちらを見ている。その人影に義経は臆することなく近づいていった。与一が逡巡していると、義経がすぐさま振り返り手で招く。
主の命に背くわけにはいかない。しかし相手の姿が見えない。与一はおそるおそる月あかり掏らない松原をかき分けて義経と人影に近づく。
──月明かりが微かに二人を照らす。そして与一は人影の正体に気が付き思わず息を呑んだ。
黒い大鎧。黒い頬面。白塗りの大刀に、日の丸の扇。
海底に叩き落としたはずの鎧武者が今、義経と共に与一を待っていた。
(拙い拙い拙い拙い拙い!これは天狗の仕業か?はてまたあの一件は義経様の謀か!)
与一が踵を返して陣に戻ろうとする。だが、いつの間にか目の前に黒い大鎧と義経が回り込んでいた。
「おや、どうしたんだい宗高。我が師を見て逃げ出すとは、失礼にもほどがあるぞ?」
「師……まさか。まさか!」
「ははは。君が思っているような存在ではないな。だが、あながち間違ってもいない。ほれ、そなたは大役から逃れようとしていただろう?それに先程俺と顔を合わせても、随分と俺の事を嫌いになったようであるからね」
感づかれていた。己の本心を。与一は震える手で小刀に手を伸ばすが、一瞬で黒い大鎧に組み伏せられる。
「おやおや浅はかであるな。総大将に下知を貰わぬまで決心できぬ上に忠義すら立てられぬとは。さて、お師匠。ここな男をどう思われる?」
「刻流しが良かろうて。狭間にでも流して、いかばかりか義経の御恩へ報い建てをしてもらおうぞ」
与一の頭の上で意味が分からぬ詞が続く。身を藻掻いて黒大鎧の組み伏せから逃れんとするが、九朗判官の師と名乗る偉丈夫は力強く、到底逃げられそうになし。
やがて話が纏まったのだろう。義経が与一に己の指を咥えさせた。与一の口の中で血の味が滲む。いつの間にか義経が指先を切って疵を作っていたようで。
「我が血は宗高が現世に戻るときの道標ぞ。だがまぁ、あちらの世で一生を過ごしてもらうぐらいはしてもらわんとな」
斯くいいながら義経が与一の口から己の指を引き抜く。それと同時、与一は己の身体が流れるような、どこか覚束なげな感覚を覚えた。
「な、何をされるのですか……!我が体に、何をした!」
「なに、何もしておらんよ。そうさな、宗高の変わり身は立てておこう。陣立ての折からこの方、お主にはよく働いてもらった故、唐突に消え去ると神仏の罰と勘違いする輩も出始めるでな」
「先程からゆめ分からぬことを!我が身を如何にしようとするのか!」
動悸が激しく、思考も虚ろ。それでも与一は在らぬ限りの力を振り絞って逃げ出そうとする。だが黒大鎧は力を緩めるどころかどんどんと力を入れるばかりで。
「では、達者でな宗高。我が第六天を掲げるまでに日の本に戻ってこれるとよいな」
義経のその言葉が、与一が現世の日本で聞いた最後の言葉だった。与一の身体が地面に埋まる。
瞬間、与一の視界が黒く塗りつぶされびょうびょうと吹く暴風が彼の耳を打つだけとなった。
那須与一宗高。
平安の終わりに起こった源平合戦において屋島の扇落としを成し遂げた弓丈夫。
だがこの一件の後、宗高の顔色は些か生気がなく目立った功績は残さず合戦を終えた。
那須の里に戻り、頼朝から御恩を賜り領地を拝領するが若くして落命。
その死にざまは土くれの如く腐り果てたといわれているが、家人の厳命により死に様は後世に伝わることはなかった。
九朗判官義経。
源平合戦が終わった後、後白河法皇や都の公家諸家との癒着など問題が山積。さらに頼朝との不和が表面化し、最終的には奥州藤原氏に縁を得て東北へと堕ち延びる。
だが頼朝の怒り激しく、奥州藤原氏の裏切りもあって自刃に追い込まれる。
しかし乍ら……不可思議なことに首検分まで相応の時間を擁したうえ、頼朝のもとに弟の首が届くころには酒でふやけて当人かどうか判然としない有様だった。
頼朝は以降本州平定に動き、奥州藤原氏討滅を以て鎌倉幕府を開くに至るが。義経の最後を伝える者たちを根絶やしにするその所業はまるで「天狗」のごとき所望であったとも、当世の人々には噂された。
時に、屋島の合戦で一人の鎧武者が与一によって射殺されているが。
その時の女人たちも平家の陣に戻って扇の裏で次々と噂し合った。
あの黒鎧武者は、平家のものではないと。
その真実を知る者は、「狭間」に刻流しと相成った与一のみ、記憶に留めるのみである。




