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(40) 東国にて㊵

お待たせしました。本日分の更新になります。 お楽しみください。

現在、更新時間は迷走中です。 面白ければ、ブックマーク、評価、布教をお願いします。(拝礼)

 今のリルは、サイラスの言動に一喜一憂していた。

 昔はそんなことはなかったのだ。

 サイラスがそばにいることが当たり前すぎて、ここまでの感情の(たか)ぶりと振れ幅はなかった。



 ああ、私はこんなにもサイラスが好きなんだ。

 リルはあらためて自覚した。



 サイラスが死んだ時、リルの世界は終わった。

 父親が死んだ時と同じように、唐突にサイラスとの別れが訪れ、リルは絶望の底に突き落とされた。

 リルはその時、悟った。

 サイラスは、親であり、家族であり、保護者であり、初恋の人であるかけがえのない存在だった、と。


 当たり前のように過ごしていた日々こそが、精霊の恩恵に満ちた幸福だったのだ。

 当然のように、同じ明日がくると信じていた。

 感謝を忘れた人間の傲慢さを叩きのめすようにあの時の自然災厄は、リルから平穏な日常生活を奪った。


 もう二度と失いたくない。

 サイラスという存在を。


 養い子だろうと、妹弟子だろうと、その存在を認めてくれるならば、この恋心を封印してもいい。

 リルはそこまで思い詰めていた。


「呼んで」

「そ、それは――」

「リルって、呼んで」

「リ…………」


 サイラスは口を片手で覆った。

 

「サイラス?」

「………………」

「サイラス?」


 養い子の期待に満ちた眼差しに耐えかねて、サイラスは絶叫した。


「練習だっ!練習の時間を要求するっ!」

「………………はい?」

「技術を習得するには、鍛錬が必要だろう?!」


 サイラスの必死な言葉に、リルはぽかんとした。

 名前を呼ぶための、習得技術や鍛錬とはなんぞや?


「……えっと、今、私がお願いしていることは、名前を覚えて、呼んでもらうことだけど?」

「ああ」

「名前だよ?」

「ああ」

「単純なことだよ?」

「…………単純じゃない」

「だって、シルビア様やイーレ様を呼ぶのに練習したの?」

「してない。シルビアは職場の同僚枠だし、イーレに至ってはただの暴君師匠ババァだからな」


  バキッ!!!

 異音に二人が振り向くと、隣室の閉ざされた厚い木製の美しい装飾ドアに無惨な亀裂が走っていた。




 西の民の若長は、伴侶(イーレ)が装飾ドアを蹴破り、隣室に乱入しようとするのを寸前で阻止した。

 さすがにここでの乱入は、二人の話し合いを中断させてしまう。ハーレイの腕の中で暴れないところを見ると、イーレもわかっているようだった。


――これは『禁句』に対しての条件反射だな……


 ハーレイは理解を示した。

 一方、娼館の支配人であるアードゥルは黙ってペンを手にすると、問題児達(メレ・アイフェス)の後見人かつ責任者かつ尻拭い役を請け負った偉大なるエトゥール王(メレ・エトゥール)に対しての請求書を書き出しにかかった。


「アードゥル様、それは?」


 支配人の伴侶であるミオラスは、興味深そうにその手元に覗きこんだ。


「セオディア・メレ・エトゥールが望んだので、書類形式(フォーマット)を印刷した」

「『ふぉーまっと』?」

「文書の構造や見た目を整えるための決まった形式や枠組みのことだ。私もながながと挨拶文と前文を毎度書き込むことは面倒だ。壊した物品、賠償金額、関係した人物さえ記入すれば、メレ・エトゥールはすぐに支払いをするとの取り決めだ」

「『いんさつ』とは?」

「まだ地上にはない技術で、紙に同一の文章を人の手を介さず書き込むものだ」

「まあ、便利な代物ですね」


 ミオラスは感嘆した。


「ついでにメレ・エトゥールは、紙に貴色である薄い青の着色を望んできた」

導師(メレ・アイフェス)への敬愛を示して――では、なさそうですね」

「鋭いな、ミオラス。大量の書の中で見つけやすくし、問題児達がやらかした事案に即対処するためだ」

「………………」

「腹黒・狡猾・非道と称されるエトゥール王だが、問題児達(バカども)を地上で総括する気の毒な人物だと私は個人的に思っている」


 アードゥルは真顔で言った。



 

 サイラス名義の弁償代がまた増えたかもしれない、とリルは察した。

 だが、こちらの方がリルにとって重要な問題なのだ。豪華な扉の損傷については、一時棚上げを選択した。

 あらためてリルは確認をした。


「呼ぶのに練習って、必要?」

「絶対に必要だ」

「私、そんな難しいことを要求している?」

「……練習が必要なことは確かだ」


 二人の間に沈黙が流れた。

 リルはやや落胆した。


「昔は呼んでくれていたのに……」

「それは『昔』の俺であって、『今』の俺ではないっ!」


 サイラスが怒鳴ったことに、リルは驚いた。

 サイラス自身が自分の激昂に困惑した。


「私の名前を呼ぶのが嫌なら――」

「そうじゃないっ!」


 サイラスは即否定した。


「名前を呼ぶのが、嫌とかではない。呼ぶ。必ず呼ぶ。約束する。けど、時間が必要だし――ああ、もう、なんと言ったらいいか――」


 頭を掻きむしって苦悩するサイラスに、リルはますます混乱した。

 このお願いごとのどこが問題だったのだろう?

 サイラスは長く息をついた。それは手合わせ前の状態を整える仕草だった。

 しばし黙ったあと、サイラスはぼそりと言った。


「……とりあえず、俺達の家に帰ろうか?」


 ずるい。

 逃げた。

 これは怒っていい事案だろう。

 だが、表情筋はリルを裏切った。

 俺達の家――サイラスはそう言ったのだ。

 俺達の家。

 その表現で嬉しくなってしまうなんて末期だ。

 嬉しくて。

 悔しくて。

 でもやっぱり嬉しくて。


「…………うん」


 リルは泣き笑いの表情を浮かべて、頷き賛同した。

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