第2話 皇帝
程なくして――――。
「着きました。ここが、私達が暮らす国――〈皇御国〉、通称皇国です」
「ここが、夜澄さ――夜澄の暮らす街…………」
夜澄に連れてこられた葉一は眼前に広がる街並みを眺めては、感嘆の息を漏らしていた。
自然豊かな風景に隠れ住む住居の数々。木や草で建てられた家屋の横には農作業をする男女の姿がチラホラ見受けられる。
「こんにちは! 夜澄様!」
「はい、こんにちは」
「夜澄様! 出来の良い野菜がありますんで、後で食べてくだせぇ!」
「お疲れ様です、後でお伺いしますね」
葉一が整備された地面の道を夜澄と共に歩いていると住人からは羨望と畏敬の念が注がれる。無論、葉一にではなく隣で歩く夜澄に向かってだ。葉一には、訝しげな視線が矢のように突き刺さっていた。
「随分慕われているんですね。僕なんか、『誰だお前!』みたいな視線ばっかりですよ」
「私は巫女ですし、ずっとここに住んでいますから、葉一のような不審者だったらそうなりますよ」
「い、痛い所を。見た目が皆さんと違いますから、しょうがないですけどね……」
かなり直球で痛い所を突いてくる夜澄に、葉一は思わず胸を痛める。実際、その通りなのだから反論もできない。
「夜澄さ――夜澄、今どこに向かっているんですか?」
「この国を治める人の所ですよ。…………呼び方、やっぱり慣れないですか?」
「はい………初対面の人をいきなり呼び捨てにするのは抵抗があります」
「なら、慣れるまでは〝さん〟付けで構いません。こういうのは強要するものじゃありませんからね」
「ありがとうございます、夜澄さん。ところで結構歩きますね」
景色に飽きる事はないが、既に足腰にきていた葉一が「まだですか?」と暗に伝える。
「辛いのは分かりますが、あともう少しです」
「もう少しって……どれくらい、ですか?」
「一刻ですよ。大丈夫です、世間話をしていたらあっという間ですから」
「その言い方ですと、まだまだ掛かるという事なんですね……はぁ…………」
この国における時間の定義を葉一は知らなかったが、ニュアンス的にはなんとなく察する事ができたらしい。精神的に疲れていた為か、重かった足取りが更に重くなっている。
「仕方がありませんね――精霊よ」
夜澄が溜息を吐き立ち止まる。そして、葉一に右手をかざすと目を瞑って集中し出した。
それこそ、人が変わったように雰囲気が変わり、別人と見紛う程。否、完全に声色と人格が変化していた。
「我が名は夜澄。畏き辺りにおわしまする神の御使いよ――どうかこの者に空舞う小鳥の如き身軽さを与えますよう……何卒、何卒良しなに、お願い仕ります…………」
ピンと張り詰めた空気の中、夜澄の口から呪文のような言の葉が紡がれた。その次の瞬間、
「なっ、身体が、浮いて……⁉」
突如として葉一の身体は宙に浮かび上がっていた。続けて、夜澄の身体も羽ばたくようにして宙へ舞う。
「楽になりましたか?」
「これがもしかして、さっき言っていた特別な力……」
葉一にとって、それは本当に不思議な現象だった。
(飛行機でもないのに、空を飛べるなんて……! いったい、どういう仕組みなんだ⁉)
記憶の扉がほんの少しずつ開き始めている事に葉一は気付かなかった。胸の奥より湧き上がる熱に浮かされていたのかもしれない。
「このまま空を飛んで行きますよ。辛かったら、また言ってくださいね」
「辛いなんて事ないですよ! むしろ楽過ぎるくらいで!」
「それなら良かった。では、行きますよ」
夜澄が動くとそれに付き従うように追従していく葉一の身体は、軽く走る速度で地面を滑空していった。
◆
「ここがこの国を治める皇帝の住まう屋敷です。中々壮観な眺めでしょう?」
「…………うん、一目で偉い人がいるって分かる」
目的地に着いて早々、葉一は目の前に佇む巨大な屋敷に圧倒されていた。
〈皇御国〉の中央に位置する城のような屋敷は遠く離れていても存在が分かる程に大きい。家屋と同じ素材で作られているようだが、大きさの規模が桁違いであった。人が豆粒程に見えてくるのは、決して錯覚ではないだろう。
圧巻の景色に葉一が独り夢中になっていると、夜澄が屋敷の門に近付いていく。門の近くでは槍を持った門衛が仁王立ちしており、夜澄の存在に気付くと男はすぐさまお辞儀をした。
「夜澄様、今日はどのようなご用件で?」
「客人です。凱陛下にお目通り頂けますか」
「客人、ですか……」
門衛の男が夜澄から視線を外して葉一へと向ける。しばし考えたのち、男は夜澄に向き直った。
「承知致しました。ここで少々お待ち下さい」
そう言って、男は木製の門を片手で押して開けると奥に引っ込んでいった。
――――それから数分後。
「夜澄様、お目通りの許可が下りました。どうぞお進み下さい」
すぐに戻ってきた男が道を空けて先に進むように促してくる。その際、葉一は武器などの危険物がないかの確認をされたのち、ようやく通して貰えた。
夜澄の案内で、しばらくは板張りされた木製の床を歩き、階段を幾つか登り、またしばらく歩く。その繰り返しと巨大な屋敷に違わぬ広さに、葉一は再び疲れ始めていた。
「夜澄さぁん……まだですかぁ……?」
「もうすぐですよ。今回は本当に」
先の事があるので、葉一は素直に信じられなかったが、夜澄の言葉は本当だったようで、ある荘厳な扉の前で夜澄が立ち止まった。
夜澄は扉に向こうにいるであろう人物に聞えるよう、腹から声を出す。
「凱陛下! 巫女夜澄! 只今参上致しました‼」
「――うむ、入れ」
「は! 失礼致します!」
夜澄の呼び掛けに、小さく返事を返したのは老人のように低い声の持ち主だった。葉一が夜澄と出会った時と同じく、決して大きな声ではない。だがしかし、その声は不思議な程にハッキリと聞き取る事ができてしまう力強さがあった。
「挨拶するだけですから緊張しなくても大丈夫ですよ」
「ご、ごくり…………」
夜澄と中の人物とのやり取りに、葉一は酷く緊張してしまっていた。ただ、夜澄の後ろに付いて行き、凱陛下と呼ばれる人物に挨拶をするだけ。事前にそう伝えられていても、緊張など解れる訳がない。
何故ならば、葉一が今から対面するのは〈皇御国〉という世界を統治する皇帝なのだから。
(行きますよ)
(う、うん)
酷く緊張してしまっている葉一の背中を夜澄が軽く叩く。心の準備が出来たとは言えないが、いつまでも待たせてしまう方がより不敬というもの。葉一は夜澄の影に隠れるようにして、室内へと入っていく。
中央には内部の広さに全く見合わない、小さな机がポツンと鎮座していた。そこでは、座布団の上で年配の男が目を閉じて座っていた。
男は夜澄の登場に合わせて、目を開けると同時に面を上げた。
「直接顔を合わせるのは久方ぶりだな、夜澄」
「はい。凱陛下におかれましては、壮健なご様子で何よりでございます」
凱と呼ばれた男の眼光が夜澄に向かれている。にもかかわらず、葉一の身体はその鋭さに貫かれ震え上がっていた。
髪が白く染まる程に長い年月を過ごしてきた男の顔は皺くちゃではあったものの、体付きは成人男性のようにたくましく、衰えを感じさせない若さのような印象を与えている。厳めしい面構えと鋭い眼光からも分かるように、凱という男はまさに〈皇御国〉の皇帝であるに相応しい外見であった。
「それで、客人であったか。お前の後ろにいる者がそうか?」
「はい、ご紹介致します……こちらは葉一。記憶を失い倒れていたところを保護致しました」
「ふむ。私は凱、この〈皇御国〉を統べる者だ」
「ぁ、……うぁ……っ」
壁となっていた夜澄が横に避けた事で、葉一は凱と相対する事になってしまう。しかし、凱の醸し出す迫力を前に金縛りにあっていた葉一は、言葉にもならない音を絞り出すのが精一杯だった。
そんな葉一を歯牙にもかけず、凱は値踏みするかのような視線を葉一に向ける。
「葉一、とやら」
「ひゃいっ⁉ な、にゃんでございましょう⁉」
「ぷ、ぷっくく…………」
余りの緊張に盛大に舌を噛んでしまう葉一。これには、夜澄も思わず失笑していた。そのおかげか、葉一の緊張も幾分か和らぎ、その過程で深呼吸を何度も繰り返す。
「ふぅ…………し、失礼致しました」
「気にする必要はない。そこで腹を抱えて笑っておる夜澄と比べれば、不敬でもなんでもないのだからな」
ようやく落ち着いた葉一はすぐさま謝罪すると、凱も寛大な対応を取った。確かに皇帝の前で笑う人間以上の無礼者は今この場にて、夜澄以外にはいないだろう。
(あれが夜澄さんの素、なのか……? 人前では結構肩肘張っているんだな。それでも皇帝の前で笑う度胸は素直に凄いな)
「何故、夜澄に罰を下さないのか気になるか?」
「え?」
凱が指摘した内容は当たらずといえども遠からずだが、葉一はそれでも頷きを返す。
「……私も含めて、歴代の皇帝には巫女達に頭が上がらない理由があるのだ。もっとも、私はまだそなたを信用しておらぬ故、その理由は夜澄が話しても良いと判断してからだ。すまないな」
「い、いえ! 僕の事が信用できないっていうのは当然です! だから貴方が謝る必要はないです! はい!」
「そう言ってもらえると気が楽だ。さて、本題に入ろう」
今までは雑談だったのだろう。凱が一度瞑目すると、舞台転換するかのように一瞬で空気が切り替わる。
「夜澄。この者を紹介したという事は、何か私に便宜を図って欲しいのだろう。話せ」
「ええ。先程話した通り、葉一には記憶がありません。どうやら名前や知識以外の全てを忘れているようです。住人達は怪しんでおりましたが、私はこの者を助けたい。ですので、逗留の許可を頂きたく思います」
「理由は?」
「困っている人を助けたいと思ったからです。それ以上でも以下でもありません」
「ふむ」
夜澄の言を聞き、凱がしばし思案に耽る。
「まあ、良いだろう。仮に記憶を失った共和国人だったとしても、進んで彼等を害する意思は我等にはないのだからな…………」
「では……」
「ただし夜澄、お前が面倒を見るのだ。それくらいの責任は持て……良いな?」
「は! 拝命致します!」
とんとん拍子で交渉は進み、夜澄が凱に恭しく頭を下げる。凱はその様子を満足げに眺めた後、葉一を見た。
「滞在期間は無期限としておく。日常生活で分からない事があれば、夜澄に聞け。あれはここの顔役のようなものだ」
「は、はい!」
「では凱陛下。私達はこれにて失礼致します」
「し、失礼致しました!」
それぞれお辞儀すると夜澄と葉一は入ってきた扉に歩いて進む。その最中、凱が思い出したように葉一に言葉を投げ掛ける。
「うむ。ああ、一つ言い忘れていた。葉一とやら」
「な、なにか……?」
葉一は慌てて振り返る。何か粗相でもしたかとビクビクしていると、
「記憶が戻ると良いな」
たった一言。それだけを呟き、凱は手元の書物に視線を移す。その顔は笑っていなかったが、葉一には気遣いのようなものを感じられて、
「あ、ありがとうございます」
先程のお辞儀よりも感謝と敬意を込めて、葉一は頭を下げるのだった。
◆
凱から逗留の許可を貰った後――――。
夜澄の家に向かう道すがら、葉一の緊張の糸は完全に切れていた。
「凄くおっかなそうな人だったな~……あっ⁉」
口を突いて出た言葉に葉一が「しまった⁉」とばかりに口を手で塞ぐ。その様子を見て、夜澄は口元の笑みを隠すように手で覆う。
「実際そうですけども、目の前で口にしては駄目ですよ。でも、逗留を認めて貰えて本当に良かった」
「うん、夜澄さんのおかげだよ」
葉一がそう感謝の意を伝えると、先を歩いていた夜澄が振り返って微笑む。
「大した事じゃないですよ。それじゃ改めて――葉一、ようこそ〈皇御国〉へ」
そして、葉一に向かって歓迎の言葉を口にした。
巫女の夜澄が口にしている呪文は、古文の文法を調べながら描写したので、文法が間違っていたらすみません!