第1話 記憶を失くした男
気付けば、その青年は見知らぬ世界にいた。
豊かな自然に囲まれた記憶にない土地と風景。澄んだ空気と木造建築物の数々。まるで、理想郷に独り取り残されたような悠久の自然美を感じさせるが、男の胸中には心をざわめかせるような不安が大きく渦巻いていた。
しかし、どうやら独りではなかったらしい。気付けば、地面に座り込んでいた男の周囲には十数人の男女が立っていた。
「あいつ、何者なんだ…………?」
「もしや、隣国の人間なのではないか?」
彼等は揃って訝しげな視線を男に注いでいた。
その者達の存在に気付いてからというものの、男は身動きが取れない程の恐怖を抱いていた。彼等が皆、剣や槍を持って切っ先をこちらに向けているのだから堪らない。無論、理由はそれだけではなかったが、その不安を言葉では言い表しようがなかった。
何も言い出せずにいると、少し汚れた作務衣を着た男が槍を突き出しながら男に尋ねる。
「貴様、何処から来た? 名と出身を名乗れ」
「あ、え、そ、のっ……え、ぇと…………」
男はしどろもどろに言葉にならない声を紡いだ。
「なんだ、もしや言葉が分からないのか? 演技にも見えないし、う~む……どうしたものか」
「あ、いっや……! ちが、っ……」
言葉は理解できた。何故かは解らないが、解らない言葉ではないし意味も解る。男が声を上手く出せないのは恐怖以前に、もっと根本的な事が解らなかったからだ。それを伝えれば、更に疑念を与える事が解っていたからこそ、言葉が舌の上で溶けていくのだ。
「どうした? 名乗る気になったか、黒髪の」
「~~~~っ」
責められている訳でもないのに、まるで尋問されるように言葉を並べられて、男の思考が混迷を極めた時だった。
「――何事ですか」
騒然としていた広場に凛とした声が響き渡った。決して大きな声ではなかったが、それでもハッキリと聞き取れる程に澄んだ清流のような声音であった。
巫女服の女性が集団の真ん中を掻き分けて現れると作務衣の男はすぐさま跪く。
「夜澄様! いえ、この者の素性を問い正していたところでして…………」
「この者……?」
夜澄と呼ばれた長い黒髪の女性は、男をじっくりと上から下まで眺めた。かと思えば、今度は顔に穴が開くのではと思う程に見つめられ、恐怖に支配されていた男も思わず目を丸くする。
「馬鹿もの…………すっかり萎縮しているではないですか。これでは話せるものも話せないでしょう」
「も、もも、申し訳ございません‼ 素性がはっきりとしない者だった故、警戒を怠る事ができなかったもので……!」
作務衣の男が非常に畏まった様子で謝罪と言い訳を矢継ぎ早に口にする。
見た目からすると、作務衣の男は三十代後半といった風体。対して、巫女服を着た女性はそれよりも更に十歳は幼く見える。
にもかかわらず、慇懃な態度を取らせている妙な不自然さ。夜澄という女性はそれ程までに地位の高い人物のようだ。
「言い訳は聞きたくありません。次から気を付けて下さい。さて――」
呆れたように怒った女性が呆然としていた男に向き直る。面を食らっていた男はそこでようやく、目の前の巫女の顔をまともに直視した。
夜天ように澄んだ艶やかな黒髪に整った顔立ち。女性にしては高身長なものの、程よく引き締まった体付きをしている。また、白衣かつ緋袴といったオーソドックスかつ特異な服装にもかかわらず、それを難なく着こなしており、彼女が持つ清廉な雰囲気を更に高めている。
「身内の者が怖がらせてしまったようで本当に申し訳ありません。私は夜澄、貴方の名前は?」
「…………」
「ん? ああ、もしかして」
何かに気付いた夜澄が仲間達に向かって手を下ろす。それに従って、男を取り囲んでいた男女が一斉に武器を下ろした。
それを見計らって、夜澄が男に視線に合わせるようにしゃがみ込み、その緑眼で男の目を覗き込んだ。
「私達は貴方に危害を加えるつもりはありません。安心して下さい」
「あ…………」
そうして朗らかに微笑む夜澄に、男の心を囲っていた恐怖という壁が音を立てて崩れていく。
敵か味方かも分からないというのに、男は自分で気付かぬ内に心の底から安堵し、全身の力を抜いていた。
「言葉は解るようで何よりです。歳は私よりも下に見えますね……ここが何処なのかはわかりますか?」
「い、いえ」
「貴方は何処から来ましたか?」
「それも…………分かりません。自分がどういう人間で、何をしてきたのかもサッパリで」
男はそう答えるしかなかった。自身を構成する大部分が欠け落ちているのだから。上下黒のスーツにネクタイを着用した自分が何者なのかなど、むしろ男自身が聞きたいくらいだった。
夜澄もそれに気付いたのか、一瞬驚いた素振りを見せるとすぐに真剣な表情となった。
「まさか…………記憶がない、という事ですか」
「っ⁉」
不安の理由をズバリと言い当てられた男の身体が大きく震えた、そう、男には根本的なものが――自分に関する記憶が抜け落ちていたのだ。
「それは、困りましたね……」
「で、でも……名前はなんとなく覚えています。合っているのか分からないですけど――うん、僕の名前はよういち……葉一って、言います」
「ヨウイチ? 何だか私達と似た雰囲気の名前ですね」
自身の名前を口にした葉一という男。一度じっくりとその名前を反芻してみると、その名前が妙にしっくりときていた。
「他には何か覚えていないのですか?」
「本当に、名前以上の事は、何も…………」
「そう…………」
葉一の言葉に納得した夜澄がそれ以降、無言となってしまう。どうすればいいのかも分からない葉一にとって、それは耐え難い時間だった。
「よし、決めました」
途端、しゃがんでいた夜澄が膝をポンと叩き立ち上がった。
「葉一、貴方を保護します」
「え?」
予想だにしていなかった言葉に、葉一が瞠目する。追放か、最悪抹殺される事を考えていたが故に。
「しょ、正気ですか⁉ 名前が分かったとはいえ、訳解らずの者を保護するなんて!」
「巫女である私が決めた事です。口出しは一切無用です」
夜澄の決定に作務衣の男が食って掛かる。他の者達も同意見だった。それもその筈。でなければ、最初に発見した時にあれ程までに警戒する筈がない。
「ですが! この者が共和国の間者なのかもしれないのですよ! 見た目こそ我等に似ていますが、服装はこの辺りでは全く見覚えがありません! 記憶の事だって、嘘かもしれないじゃないですか⁉」
「嘘を吐く理由がありますか? 仮に共和国人であれば、巫女である私を殺さない理由がありません」
彼等は皆共和国という国の人間を危険視しているようだ。冷静さを欠いた男は葉一へと敵意と胡乱な視線を向けている。対して夜澄は、極めて冷静に言葉を放っている。
その動じなさには、男も勢いを失いつつあって、
「それはっ、そうですが……」
「それに、さっき力を使って分かりました。彼は悪人ではありません。お願いします……私を信じて、どうか彼の処遇を任せて貰えないでしょうか?」
キリッとした顔で断言した夜澄が深々と頭を下げた。
それがトドメの一撃となり、男はもとい周囲の男女達も不承不承ながらも頷きを返していた。
「うん。皆、ありがとう。それじゃあ私は彼を案内しますから、皆も仕事に戻って下さい」
次の瞬間、頭を上げた夜澄の表情は素晴らしい程に生き生きとした笑顔だった。その顔を見た人達は「またか……」と、してやられたように苦笑して戻っていった。
「あの~~」
すっかり除け者にされていた葉一が立ち上がり、おずおずと夜澄に声を掛けた。
「力がどうのって言っていましたけど、ええと、夜澄さんは何か特別な力でも?」
「ん……? あぁ、あれは嘘です」
「……え?」
「そう言った方がすんなり納得してくれると思いましたから。特別な力がある、というのは本当ですよ?」
「あ、あは、あはははは…………」
清々しい程に言い切った夜澄に、葉一も去っていった人達と同様に苦笑いを浮かべる。
その直後、夜澄の雰囲気が一変して、
「それに、どうせあの方達は私達巫女に逆らえませんから…………」
「え? それってどういう……」
妙に実感のこもった事を呟く夜澄の顔はどことなく悲しげで、葉一にはそれ以上踏み込めそうになかった。
「まあ、そんな事はさておいて……! さ、私達も行きますよ」
「え、ちょ、ちょっと……⁉」
「それと、私の事は今後〝夜澄〟と呼ぶように」
悲しい表情など最初からなかったかのように笑い、夜澄が葉一の背中をぐいぐい押していく。記憶をなくした葉一の生活は、ひとまずは保障されそうであった。